小倉正恆

文・末岡照啓

はじめに

昭和16年(1941)7月5日、琵琶湖の東、滋賀県蒲生郡西宿村(現、近江八幡市)を一人の紳士が訪れた。同年4月住友六代目総理事を辞め、第三次近衛内閣の大蔵大臣に就任した小倉正恆である。天下の大臣が、なぜこんな田舎に訪れたのかと村人はいぶかったが、それは住友二代目総理事伊庭貞剛の墓前に大臣就任を報告するためであった。
明治32年(1899)5月、24歳で官吏を辞め住友に入社した小倉は、翌年3月の欧米出張に際し、総理事伊庭貞剛から「住友は単に住友の為めに君を洋行させるのではない。広く世の中の為めにあれかしと希望しているからである。帰ってから住友以外でやった方が良いと思ふならば、住友を辞めて外に行ってやってよろしい」という言葉を贈られた。あれから42年、恩人の墓前にぬかずき感謝せずにはいられなかった。

小倉正恆扁額「敬和」
小倉正恆扁額「敬和」(若宮神社所蔵)
近江八幡の若宮神社に奉納。若宮神社は伊庭家の氏神であり、西宿の屋敷跡に隣接している。

生い立ち

明治8年(1875)3月22日、小倉正恆は石川県金沢市の城下「大衆免(だいじゅめ)」で、父正路・母琴の4人兄弟(姉・弟・妹)の長男として生まれた。小倉家は代々金沢藩(前田家 100万石)の大身西尾家(4000石)に仕え、家老職にもなったが、平常は藩主に拝謁できない陪臣であった。
明治10年3月、父正路は石川県小松区の裁判所勤務となり、2歳の正恆は祖父母と共に金沢の実家に残り、祖父永政から漢籍の薫陶を毎日受けた。これが後年、正恆が漢詩・漢文学を得意とし、中国の要人と懇親を深めた素地となった。13年金沢養成小学校(現、馬場小学校)に入学すると、同級生に泉鏡花・徳田秋聲がおり、大いに文学に熱中した。数学が苦手だった正恆だが、努力して金沢第四高等中学校に入り、27年東京帝国大学法科へ進んだ。
そんな正恆の愛読書は司馬遷の『史記』であった。中国の壮大な歴史書にふれた正恆は、「司馬遷が言っておるのですが、霊山大川、偉い人に会うということが人間を作る」と語り、東京へ出てからは精力的に名士を訪問した。

金沢城跡
金沢城跡
金沢は前田家100万石の城下町であった。
小倉正恆の生家跡と浅野川
小倉正恆の生家跡と浅野川
小倉の生家は浅野川の右岸、大衆免(現、金沢市森山1丁目)にあった。
写真手前の2軒分が生家跡で、近くの馬場小学校には同級生の泉鏡花や徳田秋聲の歌碑が残されている。

内務省から住友へ

小倉正恆と住友の重役
小倉正恆と住友の重役(明治44年)
住友史料館提供
後列中央が小倉正恆、その右中田錦吉、前列右住友友純、その左鈴木馬左也。

明治30年(1897)7月、大学を卒業した小倉は先輩の薦めで内務省に入り、翌年12月山口県参事官に任命された。国家のため、あるいは地方のためと高い志を抱いていた22歳の青年官僚に与えられた仕事は、高位高官への接待や、地域行事や宴会への出席であった。正義感の強い小倉にとって、こうした生活は耐えがたく思い悩んでいた。
そんなとき、内務省の先輩で別子鉱業所支配人となっていた鈴木馬左也から住友への勧誘を受けた。小倉はオーナーの吉左衞門友純や経営トップの伊庭貞剛の人柄に接し、明治32年5月住友に入社した。時に24歳、はた目には早すぎる転身に映ったであろうが、本人に迷いはなかった。後にその感慨について、「一家に家風ある如く、会社には自らの社風がある。社風とは畢竟(ひっきょう)事業主なり事業統率者の人格反映に過ぎない。住友は幸いにして代々聡明の主人と人格高潔なる統率者に恵まれた」と語っている。

人を信じてよく使う

住友銀行神戸支店の店内風景
住友銀行神戸支店の店内風景(明治後期)
住友史料館提供
高くて堅牢な受付が、時代を感じさせる。

明治38年(1905)、欧米の人物・社会情勢を研究して帰国した小倉は、翌年から銀行・倉庫の神戸支店支配人を勤めたが、偽造小切手の支払い事件が起こった。係の責任者が青ざめて支配人の小倉に告げると、彼は泰然として印鑑簿をもってこさせ、その小切手の印鑑とじっと見比べながら「なるほど、わしでもまちがえて払っただろう」と言うだけであった。小倉は、「人間は他から彼れ此れと注意しても駄目なもので、自覚するのでなければ改まらない」と考えていた。小言を言うのではなく、自省を待つ。「人を信じて人をよく使う」これが小倉流のやり方であった。
大正2年(1913)6月、小倉は総本店支配人となった。このとき、各店部からくる重要な問題はすべて小倉の所に集まり、総理事への決裁案を作成した。小倉は、事業の大綱を知りうる機会に恵まれた。明治末から大正期にかけて、住友の事業は別子銅山から重化学工業や金融業へと発展したが、小倉も大正7年、理事へと重役に昇進した。

鴻之舞金山の開発

そんな小倉が自ら決断した事業が、金山の開発である。住友は、四国に別子銅山を経営していたが、大正8年(1919)から電線の需要に応じるため、電気銅の生産に入った。その溶剤として金銀を含む珪石を必要とし、電気精錬の過程で銅と共に金銀が採れる利点もあった。また第一次世界大戦後の不況に対し、「実業家は価値変動の少ない金山を持つべし」という持論もあった。
大正6年小倉は、北海道紋別で発見された鴻之舞金山の買収交渉に当たった。事前に家長・総理事の了解を取り付け、鉱区所有者8人に対し、言い値の90万円でさっさと買ってしまった。
開坑後は鉱脈に当たらず閉山の危機にも直面したが、小倉は担当技師の言葉を信じ、「人間というものは、失意のときには進む一方、得意のときには退く一方、これが大事である」と述べて、さらに投資して鉱脈の探索を続けた。こうして、大正14年大鉱脈を発見し、鴻之舞は東洋一の産金高を誇った。金鉱山を住友の事業に育成したのである。

上藻別駅逓
上藻別駅逓
大正15年、紋別から鴻之舞金山へ行く途中に建てられ、旅人に宿と馬を提供した。北海道で現存する駅逓8か所の1つであるが、景観がよく保存されている。
鴻之舞金山跡の全景
鴻之舞金山跡の全景
製錬所の煙突を背景に、往時は道路の左右に社宅や金山施設があった。
鴻之舞金山の坑口跡
鴻之舞金山の坑口跡
昭和6年開坑の五号坑(倶知安内)第一通洞。東洋一の産金高を誇った主要坑道であった。坑口題字の「倶知安内第一通洞」は小倉正恆の書になる。

総理事就任と人材の育成

住友ビルデイング
住友ビルデイング(昭和8年)
住友史料館提供
大正11年着工、昭和5年に竣工した5階建てビル。住友本社と共に連系各社が入居。
現在、三井住友銀行本店ビルとなっている。

昭和5年(1930)8月小倉正恆は、湯川寛吉の跡を継ぎ、六代目総理事となった。小倉は就任の挨拶で「住友の信用、声望も段々高まって来て居りおります(中略)。幸い私は長年厄介になりまして歴代総理事の型を承知して居りますから、これを思い出し、それを守って行く外ありません」と述べた。小倉は、広瀬・伊庭・鈴木など歴代総理事がそれぞれのやり方で堅持してきた事業精神をこれからも継承すると宣言したのであり、その根本精神は、「住友の利益を収めるばかりでなく、国家社会に奉仕すること」と断言している。
また、国家の視点から、真に有能な人材を育成するため、新入社員に対し、「みんなはこれから財界に入るのだが、財界というところは、ただ金を儲けるだけではいかん。先ず人間として立派でなくちゃ駄目だ、人間を磨け」と演説した。これを聞いた日向方斉や亀井正夫は、その高い理想に何ともいえない感動を覚えたと述懐しているが、このときの感動が後に関西空港や国鉄の分割民営化など、国家的プロジェクトに発揮されたのであろう。

別子開坑250年祭と総理事退任

新居浜港住友工場全景
住友金属鉱山所蔵
昭和15年の別子開坑250年を記念して作成された日本画。鉱山から派生した化学・機械・アルミなどの工場群が画かれている。画は武田耕雪、讃は小倉正恆である。

昭和15年(1940)5月、別子銅山は開坑250年という慶事を迎え、新居浜で盛大な式典が開催された。前年、新居浜築港が完成し、四阪島製錬所の煙害問題も中和工場の完成によって完全解決した。席上小倉は「住友の事業はわが国産業界のほとんどあらゆる部門に渉っており(中略)、人員の数は約八万人に上り」とその発展を言祝いだ。小倉総理事の時代、住友は傘下企業の再編に努め、昭和12年3月住友合資会社を株式会社住友本社に改組した。連系会社は金属・電線・化学・機械・銀行・信託・倉庫・生命など13社に拡大した。
小倉は総理事就任以来、貴族院議員や内閣審議会委員として国家の経済政策や道徳教育について提言しており、昭和16年4月第二次近衛内閣の国務大臣として迎えられた。同月、小倉は専務理事の古田俊之助に総理事を譲り、退任の挨拶で社員一同に「自分は11年間住友を指導してきた。その間、自分は事業を起こすにあたって、利益になるかではなく、そのときにそれが道義にかなっているかどうかということをいつも考えてきた。そうすれば間違いがない」と述べ、万感の思いを込めて「身は住友を去るが、心は住友を去らない」と告げた。十六代家長友成は、小倉の多幸を祈り「四十二年勤めし君は老いの身をささげ竭(つく)さむ国の重きに」との和歌を贈った。

その後の小倉正恆

大臣就任式
大臣就任式(昭和16年、第3次近衛内閣)
住友史料館提供
前列中央が近衛総理、その左が小倉蔵相。昭和16年7月第3次近衛内閣の大蔵大臣となるが、10月東条内閣の成立により辞任。
小倉正恆の墓所
小倉正恆の墓所
東京都港区の青山墓地に家族と共に眠る(墓地NO.一種口16号9側)。
法名は「正覚院殿恆心簡斎大居士」。

昭和16年(1941)7月、小倉は第三次近衛内閣の大蔵大臣となった。その最大の仕事は、電力の国家統制であり、配電統制令に基づく9配電会社の設立であった。同年10月、近衛内閣が倒れて東条内閣ができると、東条に留任を求められたが、「近衛さんの懇望によって入閣したので、留まる理由も意思もない」と断った。太平洋戦争中は、南京の国民政府の経済最高顧問として日中間の融和に尽力したが、果たさず昭和21年帰国した。その後も日中の文化交流に尽力し、23年中国関係の蔵書を「簡斎文庫」として愛知大学(東亜同文書院の後身)に寄贈し、30年には郭沫若文庫(現、アジア・アフリカ図書館)を設立した。
昭和36年11月20日、小倉正恆は87歳の大往生を遂げ、東京青山墓地に眠っている。かつて新入社員の面接を受けた俳人の山口誓子は、小倉の訃報に接し、「住友の親を悲しむ冬紅葉」という句を贈った。住友の人々が慈父と慕ったその生涯は、華やかにして寂びた「冬紅葉」に映じたという。

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