広瀬宰平 その3

文・末岡照啓

製鉄・化学事業への挑戦

広瀬宰平の号は「遠図(えんと)」、100年先・200百年先の将来を見据えた事業を企画するという意味である。明治22(1889)年の欧米巡遊から帰国 した宰平は、製鉄・化学工業の重要性を痛感し、国家百年の計は、住友家が率先して行うべきであると考えた。すでに前年、住友の近代製錬事業は、新居浜の惣開(そうびらき)製錬所における銅製錬と、山根製錬所における沈澱銅・硫酸などの製造でスタートしていた。
明治23(1890)年、宰平は山根製錬所の硫酸製造を拡張する一方、同所に製鉄試験係を設置し、別子の鉱石から銅、硫酸のほか銑鉄(せんてつ)の回収を試みた。明治25(1892)年7月、明治勲章(勲四等瑞宝章)を受章した宰平はこれに勢いづき、9月には宮内省へ「別子鉱山産出品標本」を献納し、海外輸出用のKS銅(住友吉左衞門のイニシャルを商標とした型銅)をはじめ、山根製錬所の硫酸・硫酸銅・硫酸鉄・酸化コバルトなどの化学品や銑鉄を披露した。翌26(1893)年2月14日には製鉄の実用化を図るため、新居浜の惣開製錬所に製鉄所を併設したが、これは官営八幡製鉄所に先立つこと7年であった。

87歳の広瀬宰平
87歳の広瀬宰平。
写真提供 住友史料館

楠木正成銅像

産出品標本
産出品標本
広瀬が1892年に宮内省に提出した別子鉱山産出品標本。
上の写真にはKS銅、丁銅、荒銅、丸銅(丁銅と誤記あり)、下の写真には銅以外の産出品(硫黄、銑鉄など)が見える。
写真提供 住友史料館。

皇居前広場の楠木正成銅像は、その当時の広瀬の気概を最もよく表したモニュメントである。広瀬の本名は満忠(みつただ)である。忠義に満々とする思いは終生変わらず、明治元(1868)年、鉱山司の役人として、生野鉱山に出張する途中、神戸湊川の田園のなかに忘れ去られた楠公の墓碑を悲しく思っていた。この墓碑は元禄5(1692)年に水戸の徳川光圀によって建立されたもので、「嗚呼忠臣楠子(なんし)之墓」とある。これが、ようやく明治天皇の勅命により、湊川神社として建設されることを聞き、「神州正気将消処(神州の正気、将(まさ)に消えんとするところ)、留在公碑 一片中(留めて、公碑一片中に在り)」と、喜びの漢詩を詠んでいる。この思いは、明治23(1890)年別子開坑200年記念の献上品が、宮内省や関係先と協議のうえ、別子産銅の楠公銅像と決定したことで実を結んだ。

広瀬宰平の引退

広瀬の事業方針は、「別子の産物で国益を図り、その事業が住友一家を利するにとどまらず、広く国家社会に貢献するようにしたい」 というものであったが、本業の産銅事業はともかく、製鉄・化学事業は技術や採算性の問題から明らかに失敗であった。実用化には早すぎたのである。明治12(1879)年、宰平は大阪鰻谷(うなぎだに)の住友本邸に別子産銅で製作した銅橋をかけ、「事業は石橋を叩いて渡るがごとく、確実を旨とすべし」と家長以下自らも戒めていたが、失敗が明らかとなっても容易に撤退できなくなった宰平には老いが忍び寄っていた。

親族写真
近江八幡の伊庭家を訪ねた際、親族一同で撮影した写真。1897年頃のもの。
中列中央が宰平
その右が妻の幸
宰平の左が姉の田鶴
田鶴の左に甥の伊庭貞剛の顔が見える。
写真提供 北脇重康

明治26(1893)年9月、新居浜では製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、農民暴動を引き起こした。翌27(1894)年1月には、住友内部から宰平の事業方針が時代に合わないと誹謗中傷する向きが現れた。同年7月、甥の伊庭貞剛(いばていごう)が事態収拾のため別子支配人として赴任したが、その解決策は今や宰平の退陣以外に見あたらなかった。8月22日、宰平は家長友純(ともいと)の実兄西園寺公望(さいおんじきんもち)から住友家の将来に悪例を残さないよう「懇話切々」と勇退を諭された。宰平もそれにはまったく同感であったが、同月25日、新居浜の伊庭貞剛にだけは、「老生も忍んで生を養い候得共(そうらえども)、今に憤懣之気(ふんまんのき)、夜夢不忘(やむわすれず)、十月頃御出阪(ごしゅっぱん)を屈指相待居候(ゆびおりあいまちそうろう)」と、苦渋に満ちた真情を吐露している。11月15日に至り、宰平は自ら決断して、住友家総理人を辞職した。
思えば、広瀬の卓越した指導力によって住友家は危機を克服し、別子鉱山の近代化を達成した。激動期には宰平のような人物を必要としたのである。住友家は宰平の長年にわたる功労に対して、終身住友分家の上席に列し、総理人の資格をもって礼遇した。「57年夢飛ぶが如し・・・・」 とは、宰平引退の辞である。その心境を最もよく理解していたのが、甥の伊庭貞剛である。明治27(1894)年12月4日、伊庭が新居浜から近江八幡の実家に宛てた書状には、「57年之寒苦之功は顕(あら)ハれ、功なり名遂ケテ、身退クハ天ノ道ナリト云フ、古語ニ適中、安心喜楽、此上事(このうえのこと)と存候(ぞんじそうろう)」と記し、57年間ひたすら住友家と別子銅山の発展に尽くした叔父の引退を祝福している。

宰平と家族

明治27(1894)年11月、67歳で住友家を引退した広瀬は、その挨拶のため長男満正(まんせい)の家族を連れ、近江八幡西宿の伊庭家を訪ねた。伊庭貞剛の母田鶴(たづ)は宰平の実姉であり、長男満正の妻米(よね)は、貞剛の妹だったからである。天保7年(1836)、9歳から単身別子へ奉公に出された宰平にとって、故郷の姉は母のように心安らぐ存在であった。同月26日の伊庭家宛て宰平の書状では、「此度之江州遊(このたびのごうしゅうあそ)ひは、未曾有之快楽(みぞうのかいらく)、全老姉之配慮一方(まったくろうしのはいりょひとかた)ならす、呉(くれぐれ)も宜敷御伝意被下度(よろしくごでんいくだされたく)」とあり、姉への感謝の気持ちが満ちあふれている。

85歳の宰平と90歳の田鶴
85歳の宰平と90歳の姉・田鶴。
1912年10月24日、 近江八幡の 伊庭邸にて撮影。
写真提供 住友史料館

豪快な仕事ぶりで知られる宰平だが、若いときには家庭的に恵まれなかった。孤独な奉公生活を経て、やっと27歳で新妻の相(あい)を娶り、広瀬家の夫婦養子となったが、難産により嬰児とともに亡くした。後妻の町(まち)は長男満正を出産したが、満正4歳、宰平35歳のときに病没している。幕末・維新期の宰平は、幼い長男を新居浜の養母に託し、住友家の家事に、あるいは国事にひとり奔走した。三番目の妻幸(こう)を迎えたのは明治8(1875)年、宰平48歳のときであった。20歳も年下の幸は、宰平の北海道旅行や欧米旅行に名刺を持って同行するなど活動的な女性であり、添い遂げられた晩年は幸せであった。

半世物語
広瀬宰平の自伝『半世物語』。
1895年刊行。
序文は西園寺公望と住友友純による。
写真提供 住友史料館

明治28(1895)年3月、宰平は重責を全うした者の責務として、自伝『半世物語』を刊行し、後進の戒めとした。この本は現在もなお、すぐれた「企業者自伝」の草分けとして評価されている。
明治30年(1897)以降、宰平は須磨に隠棲したが、広瀬本邸のある新居浜ではなく、この地を選んだのは、家長友純の家族が須磨別邸に生活することになっていたからである。終生住友家の番頭をもって任じた「臣宰平」の面目躍如たるところであろう。須磨での宰平は、読書に書写・義太夫と悠々自適の生活を送った。たまに孫や曾孫が遊びに来ると、沖合の大阪商船の船影を見つけ、自らが考案した商船マークを見るよう望遠鏡を手渡すのであった。
大正3(1914)年1月31日、宰平は須磨で87年の生涯を終えた。遺骸は、ゆかりの大阪・新居浜・近江八幡の墓所に分骨埋葬された。

新居浜広瀬邸の望煙楼

望煙楼
宰平が眺望を楽しんでいた旧広瀬邸2階の望煙楼。
漢詩「望煙楼」が床の間に見える。
撮影 普後 均

現在、愛媛県新居浜市の高台に広瀬邸が市立公園として残っている。その母屋二階を宰平は望煙楼(ぼうえんろう)と名づけたが、そこからは新居浜市街と瀬戸内海を一望することができる。眼下の惣開には、宰平が別子開坑200年を記念して建立した石碑が残っており、工場群誕生の由来を刻んでいる。いわば近代住友グループ発祥の記念碑なのである。
今からおよそ100年前、宰平は発展する町を眺めながら「望煙楼」と題する漢詩を詠んだ。高く一楼を築きて子孫に遺す、鉱山とともに末永く存続してほしい、この楼閣から煙たなびく景色を見て、ただ愛でるだけではいけない、その発展を長年支え続けた別子の恩にどうか報いてほしい・・・。今日的意味で解釈すると、冒頭の「子孫に遺す」の子孫とは、この町の人々であり、ここから世界に羽ばたいた住友グループの社員ということになろう。
昭和48(1973)年、別子の山は永遠の眠りについたが、近代化の苦闘を物語る遺跡は、現在もここかしこに残っている。宰平は、この望煙楼を通じて、発展と繁栄のルーツが別子の山にあることを忘れないでほしいと、私たちに語りかけているのである。

新居浜市 広瀬歴史記念館

広瀬宰平についてさらにくわしくお知りになりたい方は、新居浜市広瀬歴史記念館へどうぞ。

広瀬歴史記念館
新居浜市広瀬歴史記念館。
旧広瀬邸もこのなかにある。
写真提供 新居浜市 広瀬歴史記念館
所在地
〒792-0046 愛媛県 新居浜市上原2-10-42
電 話
0897-40-6333
開館時間
9時30分から17時30分
休館日
月曜日 祝日の翌日(日曜日を除く) 年末年始
観覧料
一般520円 小中学生無料 (団体割引あり)

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