住友活機園 人物編

施主・伊庭貞剛が住友活機園に込めた思いと、この地で刻んだ時を振り返ります。

伊庭貞剛
写真提供 住友史料館

人間・伊庭貞剛――心の人、徳の人

「東海道列車が瀬田の鉄橋を通過する際、車中の住友人は大抵の場合、顔を窓ガラスに押し付けて唐橋の下流を眺め、右岸の、小高い山のみどりに眼を凝らして、“あすこが伊庭さんの亡くなられた別荘だ”となつかしく思い出すものらしい。それ程に伊庭貞剛は人望があった」

こう言ったのは、住友合資会社の常務理事で歌人でもあった川田順である(1951年刊『住友回想記』より)。

活機園の主で第二代住友総理事であった伊庭貞剛は、弘化4年(1847年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に生を受けた。明治元年(1868年)、京都御所を警護する職に就き、以後、司法省検事、函館裁判所副所長、大阪上等裁判所判事などを歴任した後、明治12年叔父で初代住友総理人(後の総理事)であった広瀬宰平の勧めで住友に入社すると、3カ月後には大阪本店の支配人に就任。宰平の片腕として住友家の事業や財界活動に活躍した。

伊庭は、人の心を捉えて離さない温かさ、器量の大きさを持ち合わせていた。「心の人、徳の人」と評される由縁である。

別子再生にかけた思い

それを裏付ける逸話も数多く残されている。明治27年、貞剛は、住友の事業の本丸であった別子銅山の支配人として赴任する。当時、別子銅山は鉱山経営から発生した煙害で山林は枯れ、農産物にも被害を与え、暴動も発生していた。職員や稼ぎ人同士でも諍いが頻発し、人心の荒廃も顕著だった。

そんな別子に赴いた伊庭は、当初、ただ銅山を登ったり降りたりを繰り返し、親しく稼ぎ人に声をかけて回るのみだったという。貞剛自身、友人に宛てた手紙で「小生は馬鹿な仕事がすきなり、当世は随分かしこき人はたくさんある故、余は人の嫌ふ馬鹿な仕事をするなり」と語り、トップ自らが現場に出向いた。その温かい心遣いで殺伐とした現場の空気は次第に和らぎ、ほどなく別子は平穏を取り戻した。

さらに、植林事業を通して山林の再生に力を注ぐとともに、製錬所の沖合の四阪島へ移転し、別子の環境回復を最優先の課題として取り組んだ。後に貞剛は「わしの本当の事業といってよいのは植林事業である。わしはこれでよいのだ」と語ったという。

こうした貞剛の姿勢を目にしていた職員は、心から貞剛を慕い、明治32年、総理事となり別子銅山を離れる折には、現地で働く職員らから餞別として栂材をはじめ多くの良木を譲り受けた。それらは、活機園の和館に用いられ、建物の魅力を引き立てるとともに、別子再生にかけた貞剛の思いを伝えている。

別子銅山全景
明治14年(1881年)の別子銅山全景。
写真提供 住友史料館
四阪島全景
明治38年(1905年)の四阪島全景。
写真提供 住友史料館

40歳にして終の住処を定める

柱
別子を離れる折に贈られた四方柾の栂材を用いた柱。

貞剛が石山に土地を購入したのは明治20年、貞剛40歳のときのことだった。生地にほど近く風光明媚なこの地を終の住処にと心に決めてのことである。 内外から訪れる来客に、日本の美を知ってもらうためにこの地を選んだとも語っている。

そのときすでにひとかどの人物となっていた貞剛だが、もちろん、すぐの引退を考えていたわけではない。実際、その後の活躍は華々しく、別子での活躍に留まらず、住友銀行をはじめ今日まで続く住友グループの主要各社を設立。総理事として多くの人材を登用、育成し、グループの礎を築き上げた。

だが、引き際については、早くから期するところがあったようだ。総理事就任からわずか4年の明治37年、「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばっこ)である」と58歳の若さで引退。後進に道を譲ると、別墅(べっしょ)として建築した活機園に隠棲したのである。

施主の人格を表した邸

階段
洋館二階へ上る階段。野口孫市の案で、高齢になってからも上り下りに苦労することのないよう、段差を低く設計されている。

客間
引退後も訪れる人の絶えることがなかった客間。後の総理大臣、吉田茂も若き日に訪ねたとも伝えられる。

貞剛は建築にも造詣が深く、住友本店に臨時建築部を置き、多くの人材と名建築を残した人物でもある。「建築といふものは、実用から出たものではあるが、しかし、実用ばかりに偏しては、建築の建築たるところはなくなってしまふ。そこが芸術と謂ふものぢやろう。金を出すからといつて、施主の勝手にばかりされるものではない。そこに技師の冒しがたい良心がなくちやならん。そしてまた、施主の人格を―精神なり、趣味なりを現はすべきものだ。それぢやからおれは、建築はおろそかにするべきものでなく、技師の苦心はいついつまでもそんちょうしなければならんとおもふよ」とも語っている。

活機園を設計した野口孫市(洋館)と八木甚兵衛(和館)は、ともに住友お抱えの技師。貞剛の意を違えるはずもなく、その手腕を存分に発揮して清楚かつ拡張高い屋敷を完成させた。貞剛が若かりしころから折に触れて植えてきた松や紅葉の苗木は、そのときすでに庭木として適当なまでに育ち、四囲の景観と一体となって、主を迎え入れた。

活機とは、禅宗で「人情の機微に通じる点」を意味する。禅を愛していた貞剛は、この言葉を隠居所の名に当てた。俗世を離れたこの地にあっても、人情の機微に通じていようという意志の表れだったのだろうか。貞剛を慕って訪れる人も多かったという。いずれにしても、人望の厚かった貞剛らしい名である。

大正15年に没するまで、貞剛はここで悠々自適の日々を過ごし、「晩晴」の境地に達した。「晩晴」とは、晩年の澄みわたった心境のことで、老いを受け入れ、老いを楽しむ境地のことである。晩年に事を成し遂げる「晩成」とは対極に位置する。貞剛は活機園において、自分も自然界の一部として、山川草木を友とし、生かされていることに感謝した。別子の山を「もとの青々とした緑に返した」貞剛にふさわしい終の住処である。

現在、洋館の二階は展示室が設けられ、活機園の概要とともに、貞剛の経歴や人柄を伝える資料が展示されている。

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