「住友家の新事業にたいする態度は、慎重熟慮をその標語としますが、(中略)在来の事業にたいする改良進歩と堅実有利なる新事業につき、常に進言を怠らないように切に希望します」

  • # 住友の事業精神
  • # 総理事
1928年に交付された住友社則制定の通知(左)。これにより「営業ノ要旨」(右)から別子銅山の条文が削除された。これは今日でも住友グループ各社の理念として息づいている。

1925年、湯川寛吉が五代目総理事に就任後、主管者会議において「住友の事業というものは、在来のものももちろん大切かもしれないが、新事業についても積極的に行くべし」と訓示、新規事業への意気込みを高く掲げた。

そもそも湯川が住友に入社を決めた理由は、1897年、逓信省(現・総務省)の米国視察経験から、鋼板・電線などの国内生産が急務と感じたからである。製鉄業の可能性に賭け、住友の鉱山業を主とした産銅資本から国内メーカーの育成へと進める。その一環として、住友伸銅場(住友電工・旧住友金属・旧住友軽金属の前身)の支配人となり、製管事業に取り組んだ。1912年、ここで初めて、日本の民間企業として、継ぎ目なし鋼管「シームレスパイプ」の製造に成功したのだ。また、住友鋳鋼所(旧住友金属の前身)では、1915年、海軍、鉄道用の外輪・輪軸・歯車・台車などの国産製鋼品を生み出した功績も持つ。

湯川が総理事に就任した2年後の1927年、「住友家法」に「住友家累代の財本」と記された万世不朽の別子鉱業所を、住友合資会社の直営事業から切り離し、本社傘下の連系会社に置いた。住友の「営業ノ要旨」第二条に則り、「世の中のニーズ、動きに合わせながら興すものは興し、廃するものは廃す」(とにかく事業は現状に甘んじてはいけない、世の中動きに合わせながらアンテナを張り、進んで新規事業を開拓しなければならない)という姿勢を貫き、住友の大転換ともいえる「別子銅山事業の分離独立」を打ち出して、母なる別子から派生した新規事業への転換を宣言したのだ。

時代の流れを読み、進取の精神で新事業を切り開き、時には事業の統廃合も行う。これは今も変わらない、ビジネスにおける要諦と言えるだろう。

湯川 寛吉(ゆかわ かんきち)
1868~1931年
1868年、紀州新宮藩(現和歌山県新宮市)の藩医湯川寛斎・八重の長男として、新宮町(現、新宮市千穂1丁目)で生まれる。1890年、東京帝国大学を卒業、逓信省に入省。1905年、湯川は大学の先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社、同時に本店支配人に任命され、鈴木総理事の補佐役となった。また、1910年には理事に昇進し、鈴木・中田に次ぐナンバースリーに位置する。同年、住友伸銅場支配人を兼務、1915年には、住友鋳鋼所の取締役、1925年には取締役会長に就任。総理事を務めている1928年に停年60歳を迎えたが、まだ若かった16代家長・友成の後見人として停年を3年延長。友成の成長を見届け、任期延長を満たさない1930年に辞職。

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