弁論を読む

<優勝> YUME(ワイ・ユー・エム・イー)

中部地区代表
岐阜県立岐阜盲学校高等部専攻科理療科1年
花村彩乃(18)

あなたはどんな夢をみますか?

目が見える人と目が見えない人では、睡眠時にみる夢の見方が違います。目が見える人は、目で見る情報を頼りに生活しているからか、夢も映像を見るような感覚です。しかし、全盲の私は音を頼りに生活しているので、夢も誰かが言ったことを思い出す時のように人の声や物音が頭の中で流れてくる感覚です。このように、夢の見方に違いがあります。

物事の楽しみ方にも違いがあると思います。例えば、私はアニメが好きです。私は絵を見ることはできないのでキャラクターの姿や動きは楽しめませんが、アニメ特有の声に魅(ひ)かれます。好きな声優の声を聞くと、どこにぶつければ良いか分からないくらい感情が盛り上がります。目が見える人とは少し違うかもしれませんが、これが私なりの楽しみ方です。

皆さんの趣味は、目が見えなくても楽しめますか? 私は小さいころ、写真を見るのが好きでした。しかし、私の見えない生活は急に始まりました。まさか全盲になるなんて想像もしていなかったので「なんか急に壁にぶつかるな……」と思った記憶がおぼろげにあるくらいの幼い時から始まり15年です。もちろん、見えないことをプラスには思えないけれどマイナスでもありません。なぜなら、見えなくても生きていけるし、私には私なりの物事の見方、楽しみ方があるからです。

こう聞くと私のことを前向きな性格だと思うかもしれません。しかし、人から褒められても素直にその評価を認められない後ろ向きなところもあります。例えば、私は人とご飯を食べることが苦手です。小学校低学年の私はうまく箸を使えなかったので、2、3年ひたすら練習しました。そのかいあって、中学生の頃には箸の使い方を褒められるまでになりました。しかし、今もお米などはバラバラしていて挟みにくくこぼれます。そんな時「私の食べる姿はきれいじゃない」と思います。食べ方を褒められても「それは相手が『目が見えない人は箸を持っているだけですごい』という低い評価基準でみているからだ」と思ってしまいます。私自身「周りの人に比べれば上手ではないけど、自分なりに頑張っている」と分かっていても、自分よりもできる人と比べ、褒められても素直に認めることができません。また、昨今「人々が生まれ持ったさまざまな個人の違いを認め、尊重し合おう」という多様性が叫ばれていますが、私は他者がもつ違いは認められても自分の違いは認められません。なぜなら、当たり前にできる人と比べ「こんなこともできないなんて恥ずかしい」と思ってしまうからです。

あなたは自分の頑張りを認めていますか?

私は指で点字を読むことを尊敬されたことがありますが、弱視の友人は墨字で平仮名や片仮名、たくさんの漢字を読み書きしていました。画数の多い漢字は特に線が見づらいようで、視覚補助具を使い、時には目を限界まで近づけて必死に字を読み書きする。そうやって書いた文字の形がいびつだったとしたら恥ずかしいことでしょうか。いいえ、恥ずかしくない。私はそんなにたくさんの漢字は覚えられないので、すごい! 尊敬です! 見えない私たちにはどうしてもできないことや埋められない差があります。でも、それは見える人も一緒じゃないでしょうか。見える見えないに関わらず自分なりに精いっぱい頑張っているとしたら、その姿は恥ずかしいものじゃない。あなた自身を認めませんか。私も自分の頑張ったことを認め、尊重していきたい。

そんな私にはやってみたいことがあります。初めての場所でも歩けるようになりたい。いろいろなお店に一人で入ってみたい。このように私が夢みていることは当たり前にできる人にとってはできて当然なことかもしれません。しかし、全盲の私にとってハードルが高いと思ってしまいます。だって一歩間違えればぶつかったり落ちたりして精神も肉体も死んじゃいます。盲学校で歩行訓練をして夢がかなったなら、いつでも自分のタイミングでたくさんお出掛けできるようになってワクワクが止まらないでしょう。「パラリンピックで金メダルをとりたい」のような大きな夢ではなくても、恥ずかしがらずに私らしい夢を描いていきたいです。

あなたが持つ夢も、他の誰にもみることができない、あなただけのものです。その夢をあなた自身が肯定し認めること。それが大切です。もっと自分自身を認めましょう。

さぁ、改めて皆さんに問います。あなたはどんな夢をみますか?

<準優勝> 見えなくなって、より見えてきたこと

近畿地区代表
和歌山県立和歌山盲学校高等部専攻科理療科2年
稲川祐司(36)

私は現在36歳です。

これまでの人生で2度、深い絶望を経験しました。私は小学校1年生から野球を始めました。野球が大好きになり、野球に夢中で、毎日練習に没頭しました。高校は甲子園を目指して、親元を離れ、石川県の野球の名門校に進みました。

1年生の秋になり、よっしゃ、やるぞ、と気合が入っていた、そんな矢先、1度目の絶望が訪れました。それは、難病とされている全身性エリテマトーデスの発症です。病院で医師に「命を取るか、野球を取るか」と言われたのです。それを聞いた時、全身の力が抜け、心にポッカリ穴が開いた気持ちになりました。生きがいと目標をなくした私は、自暴自棄になりながら、高校生活を送りました。でも、保健室の先生の一言が私を救いました。「理学療法士を目指してみたら」。新しい目標ができたのです。

高校を卒業後、一人暮らしをしながら、昼間は働き、夜は夜間部の専門学校に通いました。国家試験は一発合格。その後、サーフィンにも出会いました。休みの日は一年中、波を追い求め海に通う楽しい毎日。人生、何とかなるもんやな。

しかし、そんな楽しくて、幸せな日々も長くは続きませんでした。当たり前な日常が突然終わる時がくるのです。

社会人3年目。理学療法士として働いていた私はある朝、高熱と下痢と嘔吐で病院に行きました。胃腸風邪と言われ入院することになりました。が、翌朝、脳内出血を起こしていたのです。たいへん危険な状態だったそうです。すぐに救急病院に搬送され手術を受けました。医師から「できるだけのことはしました。後は本人の生きたいという意志だけです。ですが、意識は戻らないかもしれません。たとえ戻ったとしても、寝たきりで意思の疎通は難しい状態になるかもしれない」と言われていたそうです。意識が戻ったのは2カ月後。周りの音や声は聞こえるけど、まったく何も見えません。全身に力が入りません。舌も動きません。喉に管を挿しているので、声も出せません。ここはいったいどこで、自分はどうしてしまったのか、何もわかりません。気がついたら、何の覚悟もなく病院のベッドの上に横たわり、すべてが変わっていました。これが悪い夢ならなぁと何十回、何百回そう思いました。

神様はなんで自分ばっかりつらい目にあわすんや。野球しかしてこなかった私から野球を奪い、光さえも奪い、夢中になりかけていたサーフィンも、好きな車やバイクの運転もできなくなり、何も見えへんのに、何が楽しくて何のために生きていかなあかんねん。もう死にたい、そう思いました。現実も受け入れられなくて、治療もつらくて、何度か死んだら楽になる、2度目の絶望です。

見えない、怖い、もう嫌だ。何度か死のうとしましたが看護師さんに見つけられる。「痛い思いをするだけやで」とたしなめられる。この苦しさなんか誰にもわからへんやろと、毎日イライラしました。看護師さんにも、見舞いに来てくれていた母にもあたりました。「あんたは神様に、まだあんたにしかできないことがあるやろ、生かされたんやで」と、そんな言葉を周りから掛けられても全く耳に入りませんでした。入院して半年後、喉の管を抜くことが出来ました。うまくはしゃべれないけど、声が出せました。リハビリを続け、白杖を使って歩けるようになりました。けれど、視力だけは全く回復しませんでした。それを受け入れることができなくて、退院して家に帰ってからも親にあたりました、物にあたりました。それでも、両親、兄弟、友人、多くの人の支えのおかげで、生かされた命なら、少しずつ、生きてやろうと思えるようになりました。

生きるって本当に奇跡なんや。

見えなくても歩ける、見えなくても夢や希望は持てる。

これまで、いつの日も誰かに支えられていた。時には励まされ、時にはしかられ、優しさもいっぱいもらっていた。今、自分ができることを一生懸命やること、生かされたこの命、精いっぱい生きること、常に感謝の気持ちを忘れないこと。それらが、見えなくなって、より見えたものです。

全盲は不自由だけど、けっして不幸ではありません。生きていくことこそが挑戦だぁー。自分と未来は変えられる。

ご清聴、ありがとうございました。

<3位> 私の一部

中国・四国地区代表
岡山県立岡山盲学校高等部普通科2年
西森 冬花(16)

私に、自信を与えてくれる、私を、自由にしてくれる、今では、私の一部。

皆さんは、初めて白杖を見た時、どのようなことを感じましたか?

私が初めて白杖を持った時、「重いし、片手がふさがって邪魔だな」「ちょっと恥ずかしい」、と思いました。

しかし、今では見えにくい自分の視野を補ってくれる、大切なものだと思っています。白杖を持っていると恥ずかしい、から、むしろ持っていないと困って恥ずかしい、と考えるようになりました。

白杖に対する最初の印象が、このような考え方になるまでについて話したいと思います。


私の視力は弱視で、左右の視野がとても狭く焦点が合いづらいです。

周囲の人に勧められ、本格的に白杖歩行の練習を始めたのは、小学4年生でした。まず、アイマスクをして白杖だけを頼りに、学校の敷地内や近くのバス停まで歩く練習をしました。

始めたばかりの頃は、ずっと足で探っていたはずの点字ブロックを見失い、自分がどこにいるのかわからなくなり、一人立ちすくんだり、点字ブロックの敷かれていない横断歩道をまっすぐ歩くことができず渡った先の少し右側にある田んぼに落ちたりしました。

なぜか車道に出ており、先生に「どこで止まってるの、車が来たらどうするの」とよく注意されていました。

当時の先生の厳しい指導のおかげもあり、練習を重ね、小学部を卒業する頃には、アイマスクをしていても自信を持ってバス停まで歩けるようになりました。

中学部以降は、わずかな視力も使いながら、行ったことのない道をわざと通ったり、バスや電車で出かける機会を増やしたりしました。初めて音声案内で電車の切符を買う練習をしたり、自分の「ハレカハーフ」というバスカードを作ったりして、急に自分の世界がすごく広がったようで、とてもうれしかったです。


外出時に白杖を持っておらず恥ずかしい思いをしたことがあります。

買い物を終えてレジから離れた時に「お釣り、取り忘れていますよ」と、店員さんに大きな声で呼び止められました。普段はトレーにお釣りが残らないよう事前に教えてもらっていたので、白杖を持っておらず、失敗したなと思いました。

白杖に助けられたことは他にもあります。

白杖を持って困ってキョロキョロしていると、「どうかしましたか?」と声をかけてくださる方がたくさんいます。

最初は「ちょっと恥ずかしい」、そう思っていました。しかし、道が分からず本当に困っている時に助けていただき、「ありがたいな、よかったな」と、心から思えるようになりました。白杖があれば大丈夫、そんな安心感があります。


白杖を持つようになって、自分がいちばん変わったなと感じていることは、一人で外に出ることに対する恐怖心がなくなったことです。

小さい頃からどこへ行くにも家族と一緒で、行きたいところがあれば母にお願いしていました。送迎の都合がつかない時には我慢することもありました。

「一人で学校に行き、自由に出かけられる妹や弟と自分は違うんだ」、そうあきらめている時期もありました。しかし今では「行きたかったら自分で行ってみよう」、そう思えるようになりました。

今年の3月、どうしても見に行きたい映画がありました。大好きなアニメの映画です。

「勇気を出して一人で行ってみよう」

そう思い立ち、母に相談しました。

「だめだよ。なんかあったらどうすんの」。母は私を心配して言いました。一人で出かけるなんて、昔は怖くて考えられませんでしたが、挑戦してみたい気持ちも強く、父に「一人で行ってみたいんだけど」と相談をしました。父も心配しただろうけど、「行ってもいいよ。気を付けてね」と、やさしく送り出してくれました。

自宅からイオンシネマへは、電車の乗り換えを含めて1時間ほどかかります。行く前はドキドキ、そわそわして待ちきれず、4時間前に家を出発しました。

少し間違えたけれど、2時間前にイオンシネマに着いた時には心からほっとしたし、「一人で来れた」という達成感と喜びで胸がいっぱいになりました。高揚感で映画も余計に大満足でした。

「白杖があれば、自分が行きたい時に、行きたいところへ行けるんだ」。そんな自信が持てるようになりました。

今の私の目標は、いつも私を支えてくれる家族を旅行に連れて行ってあげることです。私が先頭に立ち、家族を案内します。

これからも、白杖とともにいろいろなことに挑戦していきます。

白杖は、私の一部です。


ご清聴ありがとうございました。

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