弁論を読む

<優勝>シロウサギ

東北代表
福島県立視覚支援学校高等部保健理療科1年・常松桜(19)

因幡、白虎隊、もののけ姫のオッコトヌシ、さて共通点はなんでしょう?

2000年4月8日、元気な女の子が生まれました。でもその赤ちゃんの瞳は赤かったのです。

皆さんはシロウサギを目の前にしてどうおもいますか? 「真っ白で可愛い?」。それを人間のアルビノにして、考えてみてください。目の前に、突然、肌も髪の毛も眉毛もまつ毛も全部白い人間が現れたら、どう思いますか? 人間は何か普通とは違うものや出来事に出くわすと、それを非難する生き物だと私は思います。

見た目が白いがために、「怖い」とか「奇病」とか言われました。

幼稚園の入園式で隣に座っている子の髪の毛は黒い。その隣にいるその子のお母さんの髪の毛も黒い。ずっと私の隣で笑う母の髪の毛も黒い。私の髪の毛は白い。大好きな母のはずなのにどこか違う世界の別人かと思いました。

小学校の頃、自分を隠すことを覚えました。最初はなんの抵抗もなく見せていた髪の毛も、次第に帽子を深く被るようになり、たまに隠しきれなくて、白い髪の毛が見えてしまうと、指をさされ、笑われ、悔しかったです。

6年生の春に、周りと比べるようになるにつれて、ありのままの自分が嫌になり、黒く髪の毛を染めました。帽子を被らずに外へ出ると、じろじろ見られることは少なくなり、自分が抱えていた荷物が減った気がしました。

中学校の頃、体育の授業でのバレーボールは大嫌いでした。弱視の私には、上から降ってくるボールの距離感がつかめません。みんなが試合をしてる中、端の方でただひたすら、トスの練習をしたこともありました。

吹奏楽部では、フルートのソロを任されることもありました。指揮が見えないので、自分でほかのパートの音を聞いてタイミングを計りました。急に楽譜を渡されて即興で吹けと言われてもできずに立ち往生しました。それでも音楽の中に身を置くことが楽しくて続けられました。

3年生のとき、フルート1本で私立の高校の特待生を受験しました。結果は不合格。「なんで」。頭に浮かんだ3文字が涙とともに口から流れました。

先生が言うには、高校側は障害のある子を配慮しきれないと判断し、不合格になったそうで、その訳の分からない理由なんてちっとも耳には入ってはこなくて、ただ、受験の判断基準が、私の演奏ではなくて、障害であったことを憎みました。

もう何も分からなくなり、家に帰り一晩中泣きました。

周りが次々と合格して喜んでいる姿を見て、自分にはないものを持っている友達に腹が立ち、そのストレスを親にぶつけました。

ゴミ箱を窓ガラスに思いきり投げつけてガラスを割ったこともありました。雪が降っている中、ジャージー一枚でひたすら山に向かって歩きました。どうしたらいいかも分からなくなり、意識がもうろうとした頃に母が私を見つけ、いつも通りの声で「雪すごいな、寒っ」とか言いながら、手を握って家まで歩いてくれました。

何もかもを捨てて飛び出したあの日、母は私の背中を強く押していてくれていたのだと思います。

視覚支援学校に入学して、普通科での3年間は、視覚障がいと向き合うことができました。そして空飛ぶバレーが嫌いだった私が、地をはうボールをおいかけて、3年連続の全国大会出場を果たし、第1回埼玉大会では敢闘賞をいただきました。

理療科の入試を終えて、真っ黒だった髪の毛を真っ白の元の自分の髪の毛に戻しました。

視覚障がいをもつ仲間や先生方と学ぶ中で、ありのままの自分が一番美しいと考えたからです。

生物界で白いアルビノは、天敵にすぐ見つかりやすく、生きることが難しい。これと同じで、社会で障がい者は弾かれ、差別されがちです。

アルビノのモデルさんが活躍する現代、これから大人になろうとしているアルビノの子供たちのためにも、胸を張って、人の痛みが分かる、かっこいい理療師を目指します。そして、己を見失うことなく、心に芯を持ち続け、まだまだ偏見のある社会を私なりの発信で、変えたいと思っています。

母子手帳に母が書いてくれた言葉「我が家に天使が生まれました」。この言葉に恥じぬよう、シロウサギは跳躍します!

stand out fit in.(はみ出して、なじめ)

<準優勝>SeptenSの再起をかけて

関東・甲信越代表
埼玉県立特別支援学校塙保己一学園高等部専攻科保健理療科2年・浅野菊郎(52)

「サクサクサクサクサク」。小気味よい音と共に、はさみをにぎる指に伝わってくる心地よい感覚。お客様との他愛もない会話。それを邪魔しないしゃれたBGM。シャンプーの香りにつつまれながら、鏡越しに見せる柔らかい笑顔の奥にはいつも、スタイリストとしての目が光っていました。お客様一人一人に似合うスタイルをとことん追求する、プロとしての鋭い鋭い「目」です。

当時私は、朝8時半には出勤し、夜11時まで働いていました。3人のスタッフを雇い、カットの技術、シャンプーの仕方、カラーの理論……。日々鍛錬を重ねていました。私の店に通うことが、「ステイタス!」。そんな、美容室のブランド化も目指しました。どんどん口コミが広がり、福岡や青森からもお客様がやってくるようにまで成長しました。順風満帆、イケメンカリスマ美容師として人生を送るはずだった私ですが、運命はそれを許してはくれませんでした。

私は15年前に、「網膜色素変性症、視力は持って10年でしょう」と医師から告げられました。そんなこと言われても、とても信じられませんでしたし、信じたくもありませんでした。数いるライバルを抑え、努力の末に勝ち取った今のポジションは、山野愛子美容室銀座本店店長。やりがいに満ちあふれていた、そんなときの宣告でした。

「このままで終わりたくはない。自分の店を持つんだ。視力が残っている10年に人生をかけてみよう」と、独立を決心しました。銀座で培った一流の技術とノウハウに、自分だけのこだわりをプラスした店、屋号はヘアーマイスターSeptenS。SeptenSというのは、特別な感覚である第七感から私が考えた造語です。

夢をかなえ、生き生きと働いていた私ですが、「その日」はひたひたと近づいていました。家族からは「大丈夫?」と言われ、友人からも「お前どうした?なんかおかしくないか?」「わざとやっていない?」などと言われました。そのたび「あ、ごめん、ごめん」と、ごまかすのに必死でした。仕事では、髪がたを確認するために鏡を一生懸命のぞきこみ、指先の感覚を研ぎ澄ませ、髪の左右対称を感じ取るようにしていました。視力低下をさとられることが怖くて、とにかく普通を装っていました。

仕事帰り、夜の闇に包まれた道は更に過酷です。「見えない……でも……白杖(はくじょう)なんて持つわけにはいかない……」。そんな状態の私は、駅のホームからは2度落ち、また、大型トラックにはねられたこともありました。命の危険と隣り合わせの日々、年貢の納め時です。そして「その日」はとうとう来ました。

「ガラガラ、ガラガラ、ガシャーン」

涙をこらえながら、SeptenSのシャッターを下ろしました。「もう、こうするしかない」と。美容業界に身を投じた32年間のかけがえのない日々が、シャッターの音とともに打ち砕かれていきました。SeptenS突然の閉店でした。自分はこの先どうなってしまうのだろう? こわい! 誰か、誰か助けてくれ! どうしたらいいんだ……。気丈にふるまってはいましたが、それが本音でした。

私は今、52歳です。妻も子供もいます。一国一城の主として、今何ができるのか!? 仕事もない、どん底の状態から新たな光を求め、私は盲学校の専攻科に入学しました。そこで私は、自分と同じ境遇である中途失明の仲間、励まし合える仲間に出会うことができました。「自分は一人ではない」。そんな思いが、ありのままの自分を受け止める気持ち、前に向かって進む気持ちを奮い立たせてくれています。

美容業界の仲間にも、長年通ってくださった大勢のお客様にも、あの時、本当のことが言えなかった。それが私の心に重しとなっています。新たな自分を! そして、何も変わっていない自分を見てほしい! 元気な姿でみんなに「ありがとう」を伝えたい。いつの日かSeptenSで再起します。

人が持つと言われている五感のうち、視覚を失った私ですが、目指すはそれを更に超える感覚である第七感。たくさんの知識と経験と心の豊かさがもたらす「SeptenS!」

みんな、待っていてくれ! 今度ははさみを置いて、この手で、この手でもてなすぞ。

<3位> 人と接する勇気

近畿代表
兵庫県立視覚特別支援学校高等部専攻科理療科1年・中村丹美(35)

皆さん、こんにちは。

実は今、目の前にいる皆さんの顔や名前を全員は知りません。

ですが、私は勇気を出して皆さんにあいさつをしました。

普段何気なく行うあいさつは、家族・友達・周りのいろんな人とつながることのできる言葉です。

中には「恥ずかしくて、あいさつが苦手」なんて人もいると思います。

それは何か障害があるから?

そんなことはありません。

私は、5年前に目の障害があると診断されました。

それまで、私は介護福祉士として、またレクリエーションインストラクターとして、お年寄りやさまざまな障害を持った方々と接してきました。

あいさつはもちろん、

「今日も元気?」

という簡単な声かけを行うことで人との関わりを深めてきた私は、初対面の人にも必ずあいさつをする。声をかける。それを今日まで身につけてきました。

ですが、普段、障害を持った方々と接する機会のない健常者の方はどうでしょう?

私たち視覚障害者が白杖(はくじょう)を持っている姿は見てわかります。わかっているのですが、「大丈夫ですか?お困りですか?」と、いう一言が言えないのです。

それはなぜか?

障害を持った人が何に困っていて、どう声をかけたらいいのかわからない、それももちろんあります。

ですが何より、知らない人に「何か手伝いましょうか?」という一言が言えないのです。

小さな一言でも、大きな勇気が必要なのです。

健常者は健康だから何でもできる。

障害者は障害があるから人に何かしてもらえて当たり前。

それは間違った考えではないでしょうか?

健常者でも困っている人に出会って、何をしてあげたらいいのか悩み、声をかけるタイミングを逃して「あー、あの人絶対困ってるよな」なんて、内心後悔している人はたくさんいます。

そして、障害者に限らず、人から声をかけてもらった時や手助けを受けた時、私たちはその相手に「ありがとうございます」と、素直に言うことができていますか?

声をかけた人は「おせっかいかな?」と、内心ヒヤヒヤしているかもしれません。ですが、声をかけた相手から「ありがとう」と言われることで「まただれか困っていたら声をかけてみよう」と勇気が湧きます。そして声をかけられた私たちも、自分は一人ではなく、人と人がつながっているのだと感じることができるのではないでしょうか?

みんながみんなそんな気持ちを持っているわけではないことは私自身、声をかけた相手から「余計なお世話やかんといて」と拒絶された経験があるので、下手に声をかけてへこむのは嫌だなあって思ったこともあります。

ですが「人に接する勇気」は普段の何気ないあいさつや感謝の気持ちから生まれます。その勇気を障害者、健常者ともに持つことが心のバリアフリーにつながると思います。

誰とでも仲良くなりたい。気軽に話がしたい。一緒に笑い合いたい。その第一歩を踏み出すことはとても難しいことです。

顔も名前も知らない相手に接するなんて簡単なことではありません。

ですが、今、皆さんの周りにいてくれる友達や家族とはもうその第一歩を踏めているのです。

健常者の立場で生きてきた私は健常者の気持ちを代弁して、障害者になった私はこの言葉を皆さんに伝えたいです。

「人と接することに障害は関係ない! 人と接する勇気は皆さんの心の中にあります!」

ご清聴ありがとうございました。

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