全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第78回(2009年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 僕に続く後輩たちのために

【関東甲信越地区代表】筑波大付属 視覚特別支援学校 高等部鍼灸手技療法科2年 ファン・バン・ソンさん(32歳)

「目が見えないあなたが、いくら勉強しても、時間もお金も無駄」
こんなことを、ベトナムで普通校に通っていたころ言われました。
私は、幼いころから視覚に障害がありました。盲学校の存在を知らなかったため、学校は小学校からずっと普通校に通っていました。授業は主に耳で先生の説明を聞き勉強していました。
しかし、徐々に視力が低下し、中学2年生になると、墨字が全く読めなくなってしまいました。学校の先生はよく黒板に文字や図などをかいて、「これプラスこれイコールこれです」というような説明をされました。黒板の文字が見える生徒には何の問題もありませんが、私には先生の説明がわからず、学校の授業を受けることが非常に難しくなりました。
そこで、友達に教科書を読んでもらって、予習や復習を十分に行いました。また、目が見えなくても墨字や図がかける簡単な道具を自分でいくつか工夫して作り、テストの時はその道具を使ってかきました。例えば、墨字をまっすぐにかくために紙の両端にひもをわたし、それをガイドにして書きました。
しかし、その道具にはいくつか問題がありました。字が間違っていても自分ではわからなかったり、書いている途中で間違いに気づいても消すことができなかったりしました。そのため、テストの点数はいつも悪かったです。
そのころ、たくさんの人から「学校をやめた方がいい」。また、「障害のない人が一生懸命に勉強しても就職できないことが多いのだから」と言われました。 それでも、私は学校をやめようとは思いませんでした。将来、就職できなくても、習った知識は必ず自分の生活に役立つと考えていたからです。
私は以前、ニワトリを寒い場所で飼ったために、たくさん殺してしまうという経験をしました。その後、先生が教えてくださった通りに飼育したところ、寒さで死ぬことがなくなり、健康に育てることができるようになりました。
高校を卒業してからは盲人協会に入り、点字を勉強しました。それから普通の専門学校で3年間、漢方薬や鍼灸(はりきゅう)・マッサージを勉強していました。点字の教科書もなく、点字用紙を買うお金もなかったので、ほとんど耳だけで聞いて勉強していました。
卒業後、障害のない人が働くリラックスマッサージセンターに就職のお願いに行きました。しかし、3つのセンターに行きましたが、結局、目が見えないという理由で断られました。
そのため、村に帰り、お金を借りて治療室を開くことにしました。私は熱心に勉強をし、一生懸命仕事をしました。そこで、たくさんの人たちから信頼されるようになりました。
そんな中、私は日本に行くことを決心しました。そのきっかけは、ベトナムでの数百人の視覚障害者との出会いです。ベトナムでは、盲学校は中学校までしかありません。高校は普通校に進学しなければなりません。そのため、高校を卒業していた人が彼らの内で数人だけ、仕事をもっている人も少なく、生活が困難な人がほとんどでした。
私はその様子を見て、どうにかならないものかと考えました。
そこで、日本で鍼灸・マッサージの教育を受け、その知識と技術、さらには、視覚障害者への教育方法を学び、それらをベトナムに持ち帰ろう。そして、視覚障害者であっても学習できる学校をつくり、自立できるようにしたいと考えました。
これが日本に来るきっかけであり、今の私の夢です。
夢をかなえるため、今、生理学などの教科書をベトナム語に翻訳しています。そして、5人のベトナムの視覚障害者にスカイプで日本語を教え、同じ夢を追う同志を育てています。
「視覚に障害があっても、勉強して一生懸命働けば道はひらける」
この信念を持って日本で学び、少しでも故郷の視覚障害者の役に立ちたいと思っています。
「目が見えないあなたが、いくら勉強しても、時間もお金も無駄」と、後輩たちが二度と言われないよう。

<準優勝> 僕が一番見たいもの

【近畿地区代表】大阪府立視覚支援学校 高等部普通科2年 横井秀平さん

「横井が一番見たいものってなんや?」
去年担任の先生に聞かれました。
僕は生まれつき視力がなく、周りの物や景色、家族や友人など、見た経験は全くありません。光も全く感じることが出来ず、常に真っ暗な中で生活しています。太陽の熱・気温・時間で、1日のサイクルを作っています。
そもそも「見る」というのはいったいどういうことなんだろう?辞書では「目で物や情報を捕らえる。視覚に入れる。眺める。目を対象に向けて、その存在・形・様子を自分で確かめる」と記されていました。友人は、「『見る』とは、触らず、におわず、聞かずして、そのものがわかることや!」といいます。だけど、僕にはこの「見る」という意味が、いまいち理解出来ません。
「赤」「青」といった物の色、「空」「雲」といった景色は、触れても聞いてもわかりません。
「横井、一番見たいものってなんや?」
「あんまり考えたことないんですけど……」
「そんなわけないやろ!なんか一つくらいないか?」
僕は何も答えられなくなりました。
続けて、「横井は、色に対してどんなイメージ持ってんねん?」と聞かれても、僕は無言のまま。
先生にこの質問をされるまで、僕は「あれが見たい!これが見たい!」という欲求を感じたこともなければ、「色」について考えたことも全くありませんでした。
「すべての物や景色に色がついているとのこと。色について全く知らない自分が恥ずかしい。このままでは、晴眼者と会話できない!」
そう感じました。
「これって、どんな色してるんだろう」
「ここは、どんな景色なんだろう」
疑問を感じたら、積極的に周りの方に聞いて、知識を増やしていかなければ、と思いました。
たとえば、僕の色のイメージですが、赤…郵便ポスト・リンゴ・コーラの自販機
青…空・海・ポカリのラベル
黄色…バナナ・レモン・ヒマワリ
緑…葉っぱ・黒板・JRの緑の窓口
茶色…樹木・土・チョコレート
透明…ガラス・水・コップ
黒…ピアノ・炭・丹波の黒豆
ピンク…恋の色
そして、僕が今見ている色…真っ暗な真っ黒。
今になって、やっとこれくらいの知識があるくらいです。色について自分で勉強しようと、辞書で「赤」と調べても、「3原色の一つ。炎の色」としか記されておらず、ほかにどんな用途で「赤」という色が用いられているのか、記されていませんでした。僕はその時、「全盲にわかりやすいよう、具体例を多く取り入れた、わかりやすい「色辞典」があれば」と思いました。もしそんな辞書があれば、もっと色に対するイメージが深められ、晴眼者との間のすき間が少しでも減ると思います。
お願いです。誰か全盲用の色辞典を作ってください。僕は、色についてもっと知識を増やしたいんです。もっと、みんなと会話がしたいんです。すべての物の色がわかる色辞典です。お願いします!
触らず、におわず、聞かずして、そのものがわかる、この「見る」ということは、僕にとってすごい超能力に思えます。しかし、逆に何も見ないで生活できる全盲者も、超能力を持った人なのではないでしょうか?停電して辺りが真っ暗になっても、僕は平気ですから! 今、僕が一番見たいもの。それは…、今僕の前に広がる状況。この会場に来られているみなさんの顔、みなそれぞれ違う肌の色が見たい。それと…、いつも僕を育ててくれる、お父さん、お母さん……。

<3位> 過去の闇から未来の光へ

【九州地区代表】福岡県立柳河盲学校中学部2年 緒方健人さん(14歳)

僕が初めて自分の目がゆれていることを知ったのは、小学校2年生のときです。友達から「うわっ、こいつ、目がゆらゆらしよう」
と、からかわれました。また、休み時間に、僕が「一緒に遊ぼう」と球技をやっている中に入れてもらおうとすると、友達は急に静かになり、じゃんけんをして、負けた方のチームに僕を入れました。このような屈辱的な出来事が積み重なり、僕はがまんができなくなり、クラスの友達に当たり散らすようになり、次第にクラスの仲間から避けられるようになっていました。
そんななか、3年生になり、チームメートに出会いました。キックベースボールをする仲間です。しかし、一つだけ改善しなければならないことがありました。それは、転がるボールが僕に見えないということです。そこで、仲良しのB君が発した言葉は「ボールば置いて打てばよかやん。走る時は、誰か代走すればいいやん」でした。その意見にみんな賛成し、次の休み時間から、そのルールを取り入れてくれました。そのとき、僕は友達と楽しく一緒に遊べるようになり、本当にうれしかったです。
しかし、僕の視力はだんだんと低下し、4年生の3学期、小学校の先生と柳河盲学校を訪れました。
まず、驚いたのは人数のことでした。小学校のおよそ70分の1の人数が、全校生徒だということです。体験入学の時、一緒に勉強していた友達とはすぐに仲良くなり、その日の昼休みにはトランポリンをして過ごしました。その日、国語や算数の授業を体験するなかで、点字を覚えた方が文字が早く読めるかもしれない、と思うようになり、その日の夕方、家の台所に立つ母に「5年生から柳河に行きたい!」と伝えました。その時、僕はなぜか分からない涙を流しました。いま振り返ると、小学校の仲間と離れるのがさみしい、という気持ちがあったのかもしれません。
翌年度の5月、僕は柳河盲学校の5年生になりました。そこで出会ったのは、和気あいあいとした全校生徒9名の仲間たちでした。数日もたつと、後輩や先輩たちとも話せるようになり、やがて日がたつにつれ、先輩と「健常者が点字ブロックの上に無断で自転車を駐車すること」などについて不満をぶつけるようになりました。これは、普通の小学校で絶対にできなかったことです!
また、僕はもう一つの生きがいを見つけました。それは、ドラムという楽器です。まず、音楽室にドラムが置いてあることに驚きました。また、コントラバスやトランペットなどの高そうな楽器が部屋のあちこちに置かれていました。音楽の授業中、「懐かしいな」とドラムを眺めていると、「たたいてみるね?」と聞かれ、僕はいとこの家(うち)で遊んでいたのを思い出し、簡単なリズムを習いました。僕は面白くなって休み時間などにたたくようになり、どんどんと上達していきました。
そんななか、僕は先生や友達を信頼できなくなり、「どうせ、おれがおらん方がいいちゃろうが!」と、叫び散らしていました。その出来事が発端で、2人のクラスメートとも教室が別々になり、泊まっていた寄宿舎もクラスメートが泊まらない月、火曜日だけ泊まるという形がとられました。実際、いまは授業は一緒にできていますが、寄宿舎はあの出来事から2年がたついまも別々のままです。
しかし、どんなにストレスがたまっても、ドラムの前に座り、スティックを持ち、ペダルに足をのせ、たたき始めれば、すぐにリラックスできます。僕は、これからもドラムを続け、将来、視覚障害者に偏見をもつ人々に「視覚障害者だって健常者と同じことができるんだ」と、私たちの力をアピールしたいです。
そして、2年間、信用を取り戻すため頑張ってきたことを無駄にしないよう、僕はこれからも盲学校の仲間を大切にしたいです。
盲学校で出会った大切なもの。ドラム、そして友達! 僕は、この二つを大切に、過去の闇から未来の光へ走り出します。

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