明治26年(1893年)、木型は鋳造に引き継がれた。担当したのは助教授の岡崎雪聲(せっせい)。パリ万博(1889年)に出品した作品が二等を射止めるなど、すでに鋳造師として名を成してはいたが、高さ4メートルを超え、袖や太刀など付属品の多い像の鋳造は、全身鋳造、あるいは下から段々に鋳上げていく「登り鋳」と呼ばれる従来の日本の鋳造法では不可能で、新たな鋳造法を考案する必要があった。
折しも、シカゴで万国博覧会が開かれ、世界各国から美術工芸品が出品されるとの話を耳にした岡崎は、自費で渡米し、博覧会場を見て回った。展示されている多くの大作は、外観からすると全身鋳造で製作されたものと思われ、その技術力の高さに、ただ驚嘆するばかりであったという。しかし、博覧会も終盤に近づいたある日、たまたま窓から差す光の加減で、像面にわずかな継ぎ目のあるのが目に留まった。小躍りしながら他の像を見ると、やはり継ぎ目が認められ、全身鋳造と思っていた像の多くが、分解鋳造であることを見抜いた。
帰国した岡崎は、約1年をかけて馬を胴、首、四脚、尾の7つのパーツに分けて分解鋳造し、従来の鋳金法も組み合わせて巨大な像を作り上げていった。我が国で初めての分解鋳造法による銅像である。
研磨、色付けなどの仕上げにさらに2年を費やし、明治29年(1896年)9月、銅像が完成。明治33年(1900年)、台座の完成を待ち、ついに楠木正成像は二重橋外に竣工したのである。