「経済生活を、利を求め営利が葛藤する修羅場とみなさず、道徳的に発達するように尽力し、住友の事業をつうじて、国家の健全なる発達に貢献し、社会の向上改善に貢献してほしい」

  • # 住友の事業精神
  • # 総理事
1910年11月9日に農商務省で開かれた、第1回煙害賠償契約協定の会合の場で。中列の右端が中田(『愛媛県東予煙害史』から転載)。

1922年、四代目総理事就任後の主管者会議で中田錦吉は、「経済社会は勝つか負けるか、生きるか死ぬかの競争が行われているが、そういった社会ばかりだと思わず、住友だけが儲けるのではなく、国家に役立つために力を注ぎ、住友の事業を通じて社会の発達・向上改善に貢献してもらいたい」という言葉を残した。

中田は裁判官出身だけあって、法律家らしい謹厳実直な人格で、数々の困難を厳正に対応し、住友の社内規定を定めていった。

例えば、1906年「飯場(はんば)取締規則」を制定。飯場頭の賃金不当搾取が問題になっていた頃に制度を改め、取締規則を定めることで、一人ひとりの鉱夫に直接賃金を支払い、不良な飯場頭を罷免。近代的な雇用関係を確立させた。

1908年には、四阪島製錬所の煙害問題について奔走。大阪本店理事として愛媛県東予の被災地を自ら視察して、現場の声を聞き、完全解決を目指して力を注ぐ。

また、四代目総理事に就任した3年後の1925年10月1日、「社員55歳、重役60歳」の定年制を初めて設定。この時、中田は62歳であった。あえて自分の年齢よりも若い引退年齢を定め、総理事就任からわずか3年で、見事な引き際を見せた。日本における停年制の採用は、1933年でも336社中140社のみ。江戸時代以来の商家としては、かなり早いといえる。

自らを律し、他人にも厳しく当たった中田であったが、それは冒頭にあるような国家・社会に貢献しようとする思いに裏打ちされたものだった。

中田 錦吉(なかだ きんきち)
1864~1926年
1864年、秋田藩士の中田太郎蔵(挙直)・ブンの次男として、出羽国秋田郡大館町長倉(現、秋田県大館市長倉町)で生まれる。1890年の東京帝国大学卒業後は、横浜始審裁判所判事になり、1899年東京控訴院部長となった。翌年、大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社。それと同時に別子鉱業所副支配人となり、鈴木を補佐。1902年には、別子支配人に任命される。その後、1903年、別子在勤のまま大阪本店理事、1910年銀行支配人を兼務。2年後に銀行を株式会社に改組し、その実質的トップである常務取締役を兼務。1915年には、鋳鋼所(住友金属の前身)、1919年には大阪北港(住友商事の前身)、1920年電線(現・住友電工)・日本電気の各取締役に就任。1921年設立の住友合資会社では常務理事となり、鈴木の女房役として活躍した。

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