「其心ニ不叶人ヲ能用ひ不申候而は、支配人之意ニ而は無之候」
その心に叶わざる人をよく用い申さずそうらはでは、支配人の意にてはこれなく候

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1748年、入江友俊が支配人・重郎兵衛に宛てた「豊後町支配人重郎兵衛あて友俊意見書」。傍線部が語録に該当する箇所。
写真提供:住友史料館

これは1748年、豊後町にある両替商のオーナーだった入江友俊(住友家第5代・友昌の実弟)が、支配人・重郎兵衛に「支配人としての心得」として説いたものだ。

「住友の店員(社員)は非常に多いゆえ、支配人の意に沿う人も、沿わない人もいるでしょう。言うことをきかない人と言っても、店員たちもいろんな事情や理由を抱えている。元々、志がよくない者は論外ではあるが、信念を持った人であっても支配人の意に外れることがある。しかし、そういう人をうまく使えなくては、支配人としての意味がない。管理職の立場では、どうしても自分の意に沿わない人を疎遠にしがちだが、見捨てることなく、そういう人こそうまく使うべきである」と説く。意に沿わない人ほど、上の判断の誤りに気づいたり、違った視点を持っていたりして、後に大きな事を成すことがある、ということだ。現代の管理職にもいえるマネジメントの本質を、江戸時代から問題提起し、諭していたのである。

友俊自身、広く物事を見知った人物であり、五井ごいらんしゅう(18世紀前期の大坂の儒学者)に漢学を、冷泉れいぜいためむら(江戸中期の公卿・歌人)に和歌を、さらに原清茂(儒学者・神道家である山崎闇斎の門流)に国学・神道を学び、勉学に励んだ人物だ。その教えから、住友における数々の意見書を作成。その意見書に書かれた家法や規則が底流となって、1882年の「住友家法」として定められ、住友の事業精神の基礎となったのである。

入江友俊(いりえ ともとし)
1718~1799年
住友家第5代・友昌の異母弟。1743年、豊後町に分家して入江姓を名乗る。1751年、本家・豊後町家・別子銅山・江戸店など、各店部ごとに詳細な家法を制定。また、江戸浅草札差店の開設や、別子・立川銅山の合併を果たすなど事業拡大にも腕をふるった。一方、学問所「懐徳堂」への支援を惜しまず、多くの文化事業も手がけた。1758年に友昌が没すると、その翌年、友紀が家督を19歳で相続したが、家政の実権は養父で後見人の友俊が握っていた。友俊は、全体を統括するための経理・職制・人事に関する規則を制定するとともに、古い記録を次々にまとめ、編纂した。

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