弁論を読む

<優勝> 無意識の壁

近畿地区代表
大阪府立大阪南視覚支援学校 高等部2年
酒井 響希(17)

「障がい者と健常者との垣根をなくしましょう」

こんな言葉を皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。僕も中学2年生くらいまでは「本当にそんな世の中になったらいいのにな」と思っていました。しかし、今の僕はこの言葉に少し違和感を感じています。そう思うようになったのは、僕が中学3年生のころのある大きな経験がきっかけでした。

中学3年生の夏、僕は東京パラリンピック閉会式の舞台に視覚に障がいのあるドラマーとして出演させていただきました。この閉会式には片腕の方や車椅子を利用されている方、聴覚に障がいを抱えている方など多種多様な障がいを持つ人々が集まる舞台でした。初め僕はこの閉会式の会場で、誰かと会うたびに「この人にはどんな障がいがあるのだろう?」「自分と違う障がいを抱えている人とはどうやって接すればいいのだろう?」とそんなことばかり考えていました。というのも、今までの僕は、聴覚や身体に障がいを抱えている方とは会う機会がほとんどなく、はっきりいってどうすればいいのかわからなかったからです。

しかし周りの方たちは違いました。当たり前のようにみんなで一緒にご飯を食べたり、それぞれの障がいの苦労話で盛り上がったりとお互いの障がいが何なのかなどまったく気にしていなかったのです。そして全盲の僕にもすごく気さくに話しかけてくださり本当にうれしかったです。このとき僕は、視覚障がいのことを理解しただけですべての障がいのことを理解した気になっていたということに、健常者と障がい者との壁がなくなってほしいと願っていながら、自分と違う障がいを持つ人々に対しては自ら壁を作ってしまっていたんだと言うことに気づかされ、はっとしました。そして、そんな自分がとたんに恥ずかしくなりました。だから、どんな障がいがあっても分け隔てなく接することのできていたチームメートの方々は本当に広い心とやさしさを持っているのだと思い感動しました。

体の一部が不自由であることは、苦労することが多いのは事実です。けれど、その分、努力や工夫を重ねればできることが増やせるというのもまた事実です。むしろ自分の障がいを一つの個性だととらえ、いろいろなことに挑戦していけば、ほかの人には負けない最高の特技を見つけられると思います。それに僕たちは皆同じ人間です。障がいを抱えていてもいなくてもそれほど大きな違いはないと思います。

実際、東京パラリンピック閉会式の舞台では、障がいがあるからこそ表現できることをたくさん取り入れ、一人一人の個性を最大限に生かした最高のパフォーマンスを全力で披露しました。あの日、あの瞬間は、年齢や性別、障がいの有無などあらゆる隔たりが何もかも取り払われて、まるで雲一つない晴れわたった青空のようだったと心の底からそう感じました。

障がい者と健常者との壁や、違う障がいを持つ人同士の壁、あるいは健常者同士の壁などそういったあらゆる壁は、初めからあったのではなく僕たち自身が自らの手で作りだしてしまったのだと思います。作ることができるなら壊すことだってきっとできるはずです。もちろん、そのような壁が完全になくなったとしても、皆がまったく同じ生活を送るというのは無理があるでしょう。それでも一人一人が「誰かとの間に壁なんてないんだ」という意識を持つだけで、少なくとも今の世の中とはまったく別の世界に変えていけると思います。あせる必要はありません。皆さんも誰かとの間に作られた無意識の壁について一緒に考えてみませんか。

<準優勝> 信頼と依存

東北地区代表
宮城県立視覚支援学校 高等部普通科3年
佐藤 殊菜(18)

「あなたは視覚支援学校へ行くしかないでしょ」

これは、私が小学校6年生の時、担任から言われた言葉です。私はこの言葉を今でも忘れることができません。当時の私はとても傷つき、落ち込み、先生に対して怒りさえ覚えました。なぜなら、私はその先生のことが大好きでとても信頼していたからです。

ところで皆さん、信頼とは何でしょうか。皆さんの周りには信頼できる人がいますか。辞書では、「信頼」とは、「その人やものが疑う余地なくいざという時の判断のよりどころとすることができると信じて、依存しようとする気持ちをいだくこと。また、その気持ち」と表記されています。わかりやすく言い換えれば、その人の人柄や考え方、価値観を信じて付いていきたいと思う気持ちのことでしょうか。

私が小学校6年生の時、進路について悩んでいた時期がありました。友達と、地元の中学へ行くか、支援の充実した視覚支援学校へ行くか、自分の将来に関わる大切な決断であったため、非常に迷っていました。支援学校へ行けば自分の特性に合った支援を受けることができ、充実した環境で学ぶことができます。それは、私にとってとても魅力的なことでした。ですが、地元の中学へ進学したいという気持ちも強くありました。友人たちと離れたくないという思いだけではありません。私は、今まで自分の見えにくさから生じるさまざまな困難を、自分の努力と周囲の支援で乗り越えてきました。だから、地元の中学へ行っても自分の努力と友人たちの支援があればきっとやっていけるだろうと考えたからです。どちらを選ぶべきか、考えても考えても答えを出すことができず、夜も眠れずにいました。

そこで私は、信頼を置いていた担任の先生に相談してみることにしたのです。その先生は私と同じ女性で、その上、3年間担任をしてくださったこともあり、きっと最善のアドバイスが聞けるだろうと考えたからです。しかし、その先生の口から出た言葉はあの一言だったのです。さて、なぜ私はあの時先生の言ったことに対してあれほどショックを受けたのでしょうか。今考えると、それはきっと私が自分の大切な意思決定を、先生に委ねていたからなのだと思います。この時、私は自分の考えるという行為を放棄していたことに気が付きました。

私たちの周りには家族、先生、友達、先輩や後輩など、信頼できる人がたくさんいます。これはとてもすてきなことです。しかし、信頼することと依存することは違います。私たちは、信頼している相手に対して自分の価値観を押し付け自己決定を委ねてしまうことがあります。そのため自分の期待している答えや行動を相手がしてくれないと、失望をしたり怒りを覚えたりしてしまいます。ですが、本当の意味の信頼とは、相手の考え方や価値観を受け入れ付いていきたいと思うことだと思います。自分のことを全て委ねて、判断を任せることではないはずです。

実際、今も私は進路選択という人生の岐路に立っています。高校を卒業した後、どのような進路を選び、どのように生きていくのか。私は、大学進学という道を選びました。どの大学へ行くのか、非常に迷いました。友人からの誘いもあり、県外の大学へ進学することも考えました。彼女とは幼なじみで、私が最も信頼している友人の一人です。彼女は私の目のことも含め、私の興味関心についてとてもよく理解してくれているため、彼女と進学することができたらきっと楽しいだろうと考えたからです。しかし、私はその誘いを断りました。確かに私と彼女が志望する分野は似ており、その大学でも十分私にとっては魅力的でした。ですが、「本当にこれで良いのか」と考えた時、私は決断できずにいました。私は、もともと地元の地域活性化や地域経済にとても関心があり、それを学ぶためには、地元の大学で地域経済学を専攻することが最善だと考えたからです。また、私は自分の大切な意思決定を相手に委ねることをしたくなかったからです。

これらの経験から、私は自分の大切な意思決定を相手に委ねるのではなく、自分自身で決断することの大切さを学びました。これから私は数え切れないほどの人生の岐路に立つことになると思います。その都度責任を持って最終決定を下さなければなりません。その時は、相手に答えを求めず自分自身で決断していきたいと思います。選んだ道に正解はないから。

皆さんの周りには信頼できる人がいますか。その信頼できる人に、自分の大切な意思決定を委ねてはいませんか。最後に信頼すべきは自分なのです。皆さんも自分を信じて、これからを歩んでいってください。

<3位> おばあちゃんに感謝

関東・甲信越地区代表
長野県松本盲学校 高等部普通科3年
清水 冴恭(17)

僕は視覚に障がいがあります。生まれたときに緑内障と診断されました。ものが見えにくい中でも、家の近くの小学校に入学し、1キロくらいの道のりを毎日友達と歩いて登下校していました。当時は、行きかう車も認知でき、自由に走ることもできました。視力を維持するために、小学校を卒業するまでに、10回以上目の手術をしています。手術は怖かったけれど、その都度、家族の励ましがあり、僕も希望をもって頑張れました。しかし、僕の視力は手術をするたびに落ちていきました。「手術なんて受けなきゃよかった」と暴言を吐いたり、ものを投げたりして家族にあたったこともありました。

目の手術は山梨大学付属病院でうけていました。山梨には祖母が住んでいるので、一緒に通院に付き添ってくれることがありました。病院の中を歩くのは、目が見えにくい僕にとっては、とても不安です。なぜなら院内は複雑なルートで、たくさんの人ごみの中を通らないといけないからです。僕の不安な気持ちを察して、祖母は「さっくん、背中に乗りぃ」と優しく声をかけてくれました。いつも僕を背負って病院内を歩き回ってくれました。祖母に背負われ、うれしいような恥ずかしいような気持ちでした。また、少し時をおいて、祖母の家に行ったときには「さっくんの目は大丈夫? また入院にならない?」といつも心配してくれました。僕はその気持ちがありがたい反面、毎回心配されて「いつもうるさいなあ」と内心うんざりする自分もいました。

祖母の家に行って、家族で食事の準備や片づけなどをするときには「さっくんは危ないからそこに座ってて」と、きまって祖母が僕の分まで働いていました。「僕もお手伝いしたいのになぁ」と思っても、「いいよ、いいよ」と動くことをとめられていました。

中学入学を機に、僕は松本盲学校に通い始めました。家から松本までの距離が遠いので、寄宿舎を利用することにしました。寄宿舎では、自立に向けて、掃除、洗濯、料理、買い物など身の回りのことは全部自分でできるように取り組みました。最初のころは、お風呂掃除で泡を流し損ねたり、部屋の隅まで掃除機をかけられなかったり、失敗を挙げればきりがありません。お気に入りの腕時計をポケットに入れたまま洗濯してしまい、壊してしまったことは忘れられない大きな失敗です。失敗をするたびに「おばあちゃんが僕を大事にしすぎたせいだ」と過保護に育った過去をうらめしく思いました。

失敗を重ねながらでも、段々と身の回りのことができるようになってきた時、その姿を一番見せたいと思う人はやはり祖母でした。

中学2年生の冬、僕にとって転機が訪れました。中学部に入って以来続けてきたブラインドサッカーで、全日本ユースの強化選手に選ばれたのです。僕はこの飛び上がりたいような喜びを真っ先に祖母に伝えたいと思いました。ボールを追ってピッチ内を駆け巡る姿を見せたいという大きな夢ができました。練習や県外遠征、大会で大きな声で仲間を呼んでいるとき、パスをまわしているとき、シュートを決めたとき、いつも「おばあちゃんが見てたら、なんて言うかなあ」と思っていました。そして、その日はそう遠くない未来に必ずやってくると信じていました。

しかし、強化選手に選ばれて4カ月後、中学3年生の夏、祖母が突然他界したと寄宿舎に連絡が入りました。眠るように亡くなっていたそうです。

僕は祖母が生きている間、してもらうばかりで、自分は何もしてあげられなかったと本当に後悔しました。心配ばかりかけた上に、自分を思いやる言葉をうるさくさえ感じていたことを悔やんでも悔やみきれません。

お葬式の日、母からの話で、祖母は僕がブラインドサッカーで全国をとびまわっていることを近所の人たちに自慢してくれていたことを知りました。

この日、僕は、目が不自由でも、周りと同じようにできる姿をみんなに見てもらいたいと思い、「僕がやります」と言って、祖母が納められている棺(ひつぎ)を運んだり、葬儀の準備や片付けなども率先して取り組んだりしました。

それ以来僕は、できることは、躊躇(ちゅうちょ)せず、自分から「できます」と伝えようと心掛けています。

高校3年生になった今、次は大学生になって一人暮らしをしたいと考えています。一人で頑張る姿を一番見せたかった祖母は、もうこの世にはいないけれど、自立して生活している姿を家族にみせ、安心させることが今の大きな夢です。

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