聞き手 末岡照啓(住友史料館) 撮 影 山下恒徳
末岡 きょうは戦前戦後にわたって激動の20世紀を生き抜いてこられた亀井さんに、いろいろおうかがいしたいと思っています。亀井さんが住友に入られたのは、たしか昭和10年代−−。 亀井 昭和14(1939)年ですから、今年で62年になります。62年の間にはたしかにいろいろなことがありました。昭和14年から21年の春まで7年間本社に在籍し、戦時中は兵役に就いていました。戦後、本社の常務理事をされていた田中良雄さんのところへ「生きて帰ってきました」と報告に行くと、本社は財閥解体で清算処理中で、住友グループというのはもうないといわれました。 末岡 はい。 亀井 「君の身のふり方については、津田君に話してあるから相談しなさい」と。住友商事名誉会長の津田久さんが当時、住友商事の前身にあたる日建産業の総務部長をしておられたんです。でも津田さんが「日建産業は、まだ海のものとも山のものともわからない。住友電工のほうで人事担当の人がほしいといっている。君行くか」ということで、昭和21(1946)年の4月に住友電工の人事課に移った。そういう経歴です。 末岡 昭和14年だと、12年に合資会社が株式会社に改組され、株式会社住友本社ができて2年ということですね。その次の年、昭和15(1940)年が別子開坑250年−−。 亀井 そうです。伊庭六郎さんが書かれた本を頂戴したのを覚えています。住友は堅いところで、この本も何千冊か刷ったんでしょうけれど、全部通し番号が入っているんです(笑)。 末岡 『別子開坑二百五十年史話』にはついてましたね(笑)。 亀井 そうしたら、1週間もしないうちに、道頓堀のほうの天牛という本屋に売った人がいる。 末岡 有名な古書店ですね。 亀井 伊庭六郎さんがさかんに「けしからんやつがおる」と(笑)。 末岡 戦後の財閥解体の時代はどう感じていらっしゃいましたか。 亀井 戦争に負けて、進駐軍からいわれたのは、財閥を解体して、各社インディペンデントになれということでした。お互いに交流してはいかん、そして社名を変更せよというわけです。ところが、昭和27(1952)年に占領軍が帰った後、今度はそれぞれが、もういっぺんグループへ回帰しようと、社名もまた住友に戻していった。ただ「住友電工」「住友倉庫」「住友海上火災」、この3社だけはこの時期も住友という名前を変えなかったんです。 末岡 たしかにそうですね。 亀井 占領時、アメリカからカウフマンという元東大法学部の先生が、弁護士として戻ってきましてね。社名を変えるというのは大変だ、金も手間もかかるというので、まだ社名変更をしていなかった3社ががんばったんです。三井・三菱とともに共同歩調をとり、吉田茂氏のところへ頼みに行ったら「社名変更とは何億も何十億もかかるような仕事なのか。簡単にOKしたが、もっと早く聞いとればやらずにすんだのに」と。とりあえず期限を延ばしてもらって、その3社だけは変えずにすんだんですよ。
末岡 話は前後しますが、住友を選ばれた理由というのは何かありましたか。 亀井 私は神戸で生まれて神戸で育ちました。神戸一中から岡山の六高へ行って、東大の法学部を出て、最初は裁判官の道を選ぶつもりで司法試験を通った。しかし東京というところは、あのころえらく寒かったし、食べ物がまずかったんですよ(笑)。その点、大阪は食べ物はいいし、暖かい。司法の、人間が人間を裁くということに迷いを感じていたこともありましたので、実業界へ入ろうと決心しました。そのころ、私の親戚が住友の重役をしていて、住友へ行ったらどうかという話になりました。三井・三菱は所帯が大きかったので、すでに各社がそれぞれ独自に新卒を採用していたのですが、住友は旧制中学以上を全部本社採用して、各社に配分する。昇給賞与も全部本社でコントロールした。これが、住友の結束が非常に強かった理由のひとつでもあると思うのです。