最終回

文・末岡照啓

別子銅山の緑化事業と伊庭の自然観

明治14年(1881)の別子銅山 植林前
明治14年(1881)の別子銅山 植林前

もうひとつ伊庭から学ぶことがあります。明治27年(1894)、伊庭が銅山に登った時に、荒れた山を見て、「別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道に背くことだ。」、人間というものは、自然の一部であるはずなのに、こんなことをして良いのだろうかと考えます。これは東洋の思想です。西洋的な考えや、アメリカ的な考えでは、フロンティア精神、開拓の精神であり、人間が一番偉いということになります。ところが、東洋的な考えでは、人間は自然の一部である、だから自然を損なうと必ずしっぺ返しが来るということになります。それで山に木を植えたわけです。多い時で年間200万本以上の木を植えており、それによって山に豊かな緑がもどっています。この植林の思想が、引退した時の伊庭の中心的な思想となってきます。

住友活機園
住友活機園

滋賀県大津市に活機園(現、国指定重要文化財 住友活機園)という彼の隠棲した場所があります。彼は、ここに木を植えます。普通の人は、家を建てると、池を作ったり、築山を作ったりと庭造りをしますが、彼は明治22年、憲法発布を記念して木を植えたのです。理由は、今植えておけば、自分が引退する頃にちょうど育っているだろうということです。そして、明治37年58歳のときに「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくて老人の跋扈である」との信念から活機園に隠棲します。引き際のみごとな経営者であったわけですが、その建物の木材は、明治32年別子銅山支配人を辞めて大阪本店に帰るときに、別子職員一同から餞別にもらった地元のものを使っています。ここにも伊庭貞剛のやさしい心遣いが感じられます。

この活機園にある時、小川治兵衛という京都の庭師がやって来ます。平安神宮や野村別邸、住友有芳園、無隣庵などを作った有名な庭師です。その小川治兵衛が活機園の庭を見て、唸って言ったそうです。「負けた」と。しかし伊庭さんは「庭」を造っていません。ただ木が植わり、芝生があるだけです。なぜ負けたと言ったかというと、しょせん人間は自然にはかなわないということです。どんなに英知を尽くして池を作ったり山を作ったり、石をおいて木を植えて、いくら自然に似せようとしても、しょせん自然にはかないません。だから心ある人は、最後は山を崩し、池を埋め、石を除けて自然のままにするものだけれど、伊庭さんは最初からそれがわかっていたから、庭を造らなかったのだといわれています。

伊庭貞剛書「白髪老来」
伊庭貞剛書「白髪老来」

その活機園の生活の中で、いろいろ逸話があるのですが、私の好きな漢詩があります。
 白髪老来心自空、花開花落幾春風、
 山河草木是吾友、天地有情性相同
 「白髪老い来たりて、心おのずから空なり、花開き花落ちて幾春風、山河草木これ吾が友、天地有情、性相同じ」というものです。これは彼が晩年に詠んだ詩ですが、「年をとってすっかり白髪になり、心は自然と空の境地になった。花が開き花は散り、幾度春風がめぐってきたことだろう。見渡せば山も河も草も木も皆な私の友達である。この世に生きとし生けるものすべて性質は同じなのだから。」という意味です。わたしは、この漢詩を読んだ時、彼は、この地上の生物はすべて自然の一部であり、人間だけが良ければいいというのではいけないと思っていたんだ、と感じたわけです。まさに100年前に、今の自然環境の問題を予見していたのではないかと思います。それを彼の別の言葉で言うと、「天意憐幽草、人間重晩晴(天意幽草を憐れみ、人間晩晴を重んず)」になると思います。「天の日は、日陰の草にもおしみなくその恩恵を与える、それと同じように、人間も晩年の何のわだかまりもない澄み切った気持ち、「晩晴」を重んじなければならない」という意味です。つまり、「晩晴」とは、大器晩成の「晩成」の対極にあるもので、人為的になろうとするのではなく、自然に会得する境地なのです。それこそ、人間は自然界の一部として生かさせていただいているという謙虚な気持ちを忘れず、自然への深い感謝の念に達することだと思います。

現在の別子銅山跡 植林後
現在の別子銅山跡 植林後

こんな話をすると、伊庭さんは生まれつき神様のような人だったのかと誤解される方があるかも知れません。しかし、私が読んだもののなかで伊庭さんは、「人間というのは、若い頃は、角があればあるほどいい。」と言っています。伊庭さん自身、若い頃には、角がありすぎる人でした。司法卿に向かって、正々堂々と不平を申し上げますと言った人です。ではなぜ、角があるほうがいいかというと、「若いころに老境に達した翁になっていたら、すり減るところがなくて、年を取ったら何も無くなってしまう。若い頃に少々角が有りすぎるくらいの方が、だんだん取れてきて、最終的に良いくらいになるものだ。」と言うわけです。私は、活機園を訪れて屋敷や木を眺めながら、そんないくつかの伊庭語録を思い浮かべながら、伊庭さんのことを偲んでいます。

今お話しした広瀬と伊庭の二つの上申書は、今回展示しておりますが、今年発見されました。これも住友家の御当主(15代友純、16代友成)がお手元に持っておられました。今年は、16代御当主の13回忌にあたりますが、四阪島100年という年に、二人の上申書が揃って出てきたということに、強い縁を感じております。

13. 広瀬宰平と伊庭貞剛の今日的意義

21世紀は、経済のグローバル・スタンダード化と、地球環境の維持が大きな問題となっています。経済発展と自然環境の調和が世界的に問われている今世紀だからこそ、われわれは、100年以上前に広瀬宰平と伊庭貞剛が別子銅山で行ったことを忘れてはいけないと思います。近年、さかんにマスコミ等でコーポレート・ガバナンス(企業統治)とか、コンプライアンス(法令遵守)とか、CSR(企業の社会的責任)とか言われていますが、これらは決して西洋の借り物でありません。広瀬や伊庭の実践に見られるように日本的経営のなかにすでにあるものなのです。日本的経営は、サスティナブル(持続)経営であると言われます。事実、江戸時代以来の伝統ある老舗がたくさんあります。企業は決して、株主だけのものではなくて、従業員やその家族、および取引先や地域社会など利害関係者(ステークホルダー)のものです。その関係が守れて初めて経営が持続できるのです。そして環境に配慮しないと経営は持続できません。目先の利益に目を奪われて会社が倒産することは、企業の不幸だけでなくステークホルダーすべての不幸になるのです。今世紀を生きるわれわれは、広瀬と伊庭の歩んだ道を振り返り、もう一度将来について考える必要があると思います。

まだ、お話ししたいことはたくさんありますが、時間もまいりましたので、このへんで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。(了)

(住友史料館副館長、新居浜市広瀬歴史記念館名誉館長)

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