その後の小倉正恆
昭和16年(1941)7月、小倉は第三次近衛内閣の大蔵大臣となった。その最大の仕事は、電力の国家統制であり、9配電統制会社の設立であった。同年10月、近衛内閣が倒れて東条内閣ができると、東条に留任を求められたが、「近衛さんの懇望によって入閣したので、留まる理由も意思もないと」と断った。太平洋戦争中は、南京の国民政府の経済最高顧問として日中間の融和に尽力したが、果たさず昭和21年帰国した。その後も日中の文化交流に尽力し、23年中国関係の蔵書を「簡斎文庫」として愛知大学(東亜同文書院の後身)に寄贈し、30年には郭沫若文庫(現、アジア・アフリカ図書館)を設立した。
昭和36年11月20日、小倉正恆は87歳の大往生を遂げ、東京青山墓地に眠っている。かつて新入社員の面接を受けた俳人の山口誓子は、小倉の訃報に接し、「住友の親を悲しむ冬紅葉」という句を贈った。住友の人々が慈父と慕ったその生涯は、華やかにして寂びた「冬紅葉」に映じたという。 |
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大臣就任式
(昭和16年、第3次近衛内閣)
住友史料館提供 前列中央が近衛総理、その左が小倉蔵相。昭和16年7月第3次近衛内閣の大蔵大臣となるが、10月東条内閣の成立により辞任。
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小倉正恆の墓所
東京都港区の青山墓地に家族と共に眠る(墓地NO.一種口16号9側)。法名は「正覚院殿恆心簡斎大居士」。
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