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伊庭貞剛は荒れ果てた別子の山々をもとの自然の状態に戻すため、それまで毎年6万本に満たなかった植林本数を、一気に毎年100万本台へと増やしていった。また彼は、専門技術者を招いて森林計画を作成、実施した。現在の別子における豊かな自然は、この計画が基盤となっている。
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1877年(明治10)年 |
27,560 |
| 1878年(明治11)年 |
238,801 |
| 1879年(明治12)年 |
220,211 |
| 1880年(明治13)年 |
52,195 |
| 1881年(明治14)年 |
123,396 |
| 1882年(明治15)年 |
20,888 |
| 1883年(明治16)年 |
64,528 |
| 1884年(明治17)年 |
35,113 |
| 1885年(明治18)年 |
23,610 |
| 1886年(明治19)年 |
80,166 |
| 1887年(明治20)年 |
77,064 |
| 1888年(明治21)年 |
82,350 |
| 1889年(明治22)年 |
41,500 |
| 1890年(明治23)年 |
41,800 |
| 1891年(明治24)年 |
26,800 |
| 1892年(明治25)年 |
61,620 |
| 1893年(明治26)年 |
32,520 |
1894
伊庭貞剛、別子に支配人として赴任 |
1894年(明治27)年 |
117,150 |
| 1895年(明治28)年 |
275,000 |
| 1896年(明治29)年 |
406,200 |
| 1897年(明治30)年 |
1,217,001 |
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1898年(明治31)年 |
1,353,605 |
1899
伊庭貞剛、
住友本店に帰任 |
1899年(明治32)年 |
1,450,930 |
| 1900年(明治33)年 |
不明 |
| 1901年(明治34)年 |
2,270,000 |
| 1902年(明治35)年 |
1,941,267 |
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1903年(明治36)年 |
2,454,330 |
| 1904年(明治37)年 |
2,194,104 |
| 1905年(明治38)年 |
2,439,945 |
| 1906年(明治39)年 |
1,969,469 |
| 1907年(明治40)年 |
2,051,195 |
| 1908年(明治41)年 |
2,484,500 |
| 1909年(明治42)年 |
1,784,292 |
| 1910年(明治43)年 |
1,521,428 |
| 1911年(明治44)年 |
1,552,162 |
| 1912年(大正)年 |
1,640,754 |
| 1913年(大正2)年 |
1,233,140 |
| 1914年(大正3)年 |
1,181,516 |
| 1915年(大正4)年 |
1,286,566 |
| 1916年(大正5)年 |
918,482 |
| 1917年(大正6)年 |
976,026 |
| 1918年(大正7)年 |
922,186 |
| 1919年(大正8)年 |
620,107 |
| 1920年(大正9)年 |
739,803 |
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別子鉱山への単身赴任
明治12(1879)年5月1日、伊庭は大阪本店支配人に就任し、宰平の片腕として住友家の事業や、財界活動に活躍していたが、明治二26(1893)年5月頃から新居浜では、製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、同年九月には農民暴動となる。広瀬宰平の進退問題とも絡んで、別子の騒動は暗雲を呈していた。
明治27(1894)年7月4日、単身別子支配人として赴任した伊庭は、別子の内憂外患の原因が、重役と職員、職員と稼ぎ人同士、はては会社と農民の意思の疎通を欠いた人心の荒廃にあると看破した。そのとき伊庭は、ただ銅山へ登ったり降りたりして、親しく稼ぎ人に声をかけるのみであったが、これも殺伐とした人間関係を和らげるには、経営トップ自らが現場へ出向いて、対話する必要性を感じていたからである。当時の一般常識から見れば、愚かに見えたかもしれないが、伊庭は親友品川弥二郎宛の書状で、「小生は馬鹿な仕事がすきなり」とあえて言い放っている。馬鹿に見える仕事こそ、時と場合によっては重要であると達観していたのである。この伊庭の態度に感化されて、さしもの別子騒動も、次第に静まりを見せていった。
四阪島への製錬所移転
また伊庭は、荒廃した別子の山々を見て、「別子全山を旧(もと)のあをあをとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない」と、山林保護の方針を立てた。まず、亜硫酸ガス発生の原因となる別子山中での焼鉱や製錬を止め、早急に薪炭を石炭燃料に代替しなければならない。しかしそうすれば、新居浜の惣開(そうびらき)製錬所を拡張する必要が生じ、平野部での被害が深刻化する。かといって、このまま何もしなければ、別子の山も新居浜も煙害によって人心ともども荒廃してしまう。補償や慰撫といった手段では根本的解決にはならない。まして大自然はそのようなことでは復旧しないと判断した伊庭は、山でも平野でもない、その影響の最も少ないところに製錬所を移す決断を下すことになる。
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