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「総理」が生まれたとき
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広瀬宰平 その一
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その二
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その三
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伊庭貞剛 その一
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その二
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鈴木馬左也 その一
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その二
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中田錦吉
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湯川寛吉
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小倉正恆
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古田俊之助
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文・末岡照啓
日本近代産業史の証人として
幕末期、とくに天保期(1830年〜1844年)以降、住友家の経営は本業の別子銅山が経営不振を極め、江戸の金融業も天保の改革で大打撃を受けた。嘉永2(1894)年には、銅座預かり金の返済ができずに倒産する恐れもあった。
こうした危急時には、日勤老分・支配人・副支配人から構成される、支配方と呼ばれる部局による集団指導体制がとられ、これをのれん分けされた末家集団が補佐していた。
彼らはたびたび当主に諫言・上申した。元治元(1864)年には、十一代・友訓が20歳の若さで早世したので、末家(別家)・手代の総意によって、いったん他家へ養子に出されていた実弟・友親が呼び戻され、慶応元(1865)年に一二代当主に迎えられた。住友家では、このような経営危機を背景に、番頭政治が強まっていったのである。
住友家第十二代・友親から広瀬宰平に宛てた「総理代人委任状」。これにより広瀬宰平は住友家の事業に関する一切の権限を有することとなった。
広瀬宰平の登場
明治維新の際、住友家の重要案件は大坂本店の支配方で決議された。明治元(1868)年当時の支配方構成員は、日勤老分補助・鷹藁源兵衛を筆頭に、日勤老分・今沢卯兵衛、同・清水惣右衛門、支配人・松井嘉右衛門、副支配人・竹中小兵衛の五人。またそのまわりには、守旧派ともいうべき、門閥系の末家集団がいた。
鷹藁は天保11(1840)年、本店支配人に就任して以来、約30年あまり住友を指導してきた大長老であり、今沢、清水は別子支配人から日勤老分となった人物。当時、官軍に接収されそうになった別子銅山の経営権をめぐって、土佐藩の川田小一郎と丁々発止の交渉をやりあった、別子銅山支配人・広瀬宰平は、住友家の序列でいうと支配人・松井に次ぐナンバーファイブでしかなかった。
慶応4(1868)年3月、広瀬はようやく新政府から別子銅山の経営権を確保したものの、大坂本店の重役は、別子銅山の経営難からこれを10万円で売却しようとした。本店重役はその一時金で「イエ」の存続を図ろうとしたのである。
しかし広瀬にとって、「イエ」とは個人ではなく、住友の名前を冠して働くもの全てであった。彼は慶応2(1866)年の大みそか、京都へ行き勘定奉行へ銅山稼ぎ人の食料米を嘆願しているが、そこでの感慨を次のような漢詩に託している。
「五千人の命孤身に聚まる、風雪何ぞ辞せん万苦の辛、除夕未だ成らず救荒の議、枉げて宿志を懐きて新春に向かう」
広瀬にとって、5000人の稼ぎ人とその家族すべてが住友家のファミリーであった。広瀬は、この素志に基づき本店の重役と大激論を交わし、血涙を注いで別子銅山売却という暴挙を食い止めたのである。
鰻谷本邸があった大阪市中央区島之内一丁目の現在の風景
富島出店があった西区川口四丁目の現在の風景
撮影 普後 均
以後、広瀬は住友家のファミリーを救うため、ときに本店に相談せず、独断で別子銅山の改革を断行していく。
明治2(1869)年、広瀬は義右衛門から宰平と自ら改名したが、その由来について「これ亦、幸に人を主宰するの任に当らは、能く公平に万般の事物を処決裁断せんとの心契に外ならさりしなり」と述べている。
「宰平」への改名宣言は、とりもなおさず総理代人就任への決意表明と見ることもできよう。
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