大阪編

大阪への第一歩を踏み出した二代目・友以とは…

二代目・友以(とももち)といえば、宗教家で商人の心得を遺し住友の事業精神を説いた初代・政友を義父に。そして実父に、わが国に初めて「南蛮吹」の銅精錬技術をもたらした蘇我理右衛門を持つエリートとして育った。 二人の偉大な父を師と仰ぎ、京から大阪へ大きく舵取りを変えて、近世住友の基盤を形成した人物といえる。

これまで「歴史探訪」の中で、宗教家、思想家を貫いた初代・政友や、銅精錬のパイオニア、蘇我理右衛門の人物像などに触れてきた。いずれも住友という企業に留まらず、日本という国の国民史の一ページを飾るに相応しい希代な人物であったといえるだろう。

理右衛門は大阪(一説には泉州堺)で生まれる。一五九〇年(天正十八)、わずか十九歳の若さで“上洛”。現在の京都鴨川に架かる五条大橋の近く、寺町松原下ル西側に、銅の精錬と銅細工を事業とする屋号「泉屋」を起こした。
同時期は、秀吉が悲願の天下統一を成し遂げた頃と重なり、京都の町は、今の短冊型の街区に変わるなど都市改造の真っ只中、人口も増えて活気に溢れた。高い技術を身につけていた理右衛門は、「南蛮吹き」の新技術をもとに、秀吉の推し進める新都市造りに、壮大な夢を託していたに違いない。

友以は、そんな二人を後ろ盾にするかのように、慶長十二年(一六〇七)京都に生まれた。この時、父 理右衛門は三十四歳で、世は秀吉が推し進める都市改造の真っ只中。人口も三倍の三万人膨れ上がり、好景気に沸き返っていた頃だった。
理右衛門は長男 友以に、物心がついた頃から家伝の「南蛮吹き」の技術を教え込んだ。跡継ぎとしての期待と夢を膨らませていたに違いない。また義父・政友にしても、住友二代目に相応しい教養と精神、信仰の心を説いたと推察できる。
こうして幼少の頃から英才教育をほどこされた友以の成長は著しく、住友政友の養子になると、京都三条孫橋町(京阪三条駅付近)に分家して、銅精錬と銅製品販売の店を開業し、「泉屋住友家」を興した。
政友や理右衛門らの英知を授けられた友以は、家業を伸ばすために港のない京都から、水運に適した大阪への進出を実現した。
銅の運搬が船で出来る。精錬には大量の水が必要ー。
そして何よりも海に向かって開かれている港があり、交易も視野に入れた遠大な事業計画が立てられたはずである。
元和九年(1623年)、友以十七歳の時、その第一歩が踏み出され、事業を京都から大阪の内淡路町(東横堀川に架かる平野橋東付近)に移したのである。

大阪 銅吹き所あと
大阪 銅吹き所あと

振り返ると、大阪出身の父理衛門が京都に出て、銅精錬業を起こしたのが十九歳。秀吉の都市改造が始まった時期である。
息子の友以も二歳若い十七歳で新しい大阪という都市の真ん中に飛び込んだ。“蛙の子は蛙”ではないが、“時流”を読み、それに乗りながら事業拡大をはかるという才覚は、幼少期に叩き込まれた英才教育のたまものかもしれない。

政友の涅槃宗の信者は、長崎異国警固役の武士など北九州に広く分布しており、友以にもその関係から海外情報がもたらされた可能性が高く、銅貿易が国内以上に期待できるとして、長崎出島のオランダ商館を通じて、早くから海外との銅取引を始めている。

一方では、政友の影響を受け、仏教への信仰が厚く、嵯峨野・清凉寺本堂の建立や、自筆の紺地金泥の法華経を遺した友以である。

銅山経営へ、そして別子銅山の発見

「銅山経営とは、個人企業のためではなく国家のための仕事である」 これは江戸期からの住友家の考え方である。

京都から大阪に進出した住友二代目・友以は、蘇我理右衛門の助言などを参考に事業拡大をはかり成功させた。東西横堀川と道頓堀、長堀に囲まれた「島之内」に大規模な銅吹き所(精錬所)を開設した。この銅吹き所は、さらに拡張され元禄三年(一六九〇)には本店や住友本家も同地区に移転し、近世住友の本拠となった。
最盛期には面積七百五十坪(約二五〇〇平方メートル)、百数十人の職人たちが働き、日本を代表する精錬所となった。一方、友以は大阪の一万人ともいわれる銅吹き業者に非常に好意を持たれた。大阪の同業者たちに“南蛮吹き”の秘法を惜しみなく伝授したことが背景にあるが、“南蛮吹きの宗家”としての特別な地位を占めるようになったのは容易に想像できる。

そして、精錬所は、当時日本を代表する施設とあって、幕府要人はもとより長崎出島のオランダ商館長らが江戸城参勤の途中、しばしば訪れたと言われる。オランダ医学などの紹介で有名なシーボルトも随員として訪れたという。こうしたことがきっかけでオランダ、中国などとの銅交易が増し、同時に外商で得た巨額資金を元に糸、反物類や砂糖、薬種その他の輸入品の販売まで手がけ、貿易商としての才能も発揮した。

だが友以は、「もっと銅が採れる山があったら…」
活況に満ちた事業光景を眺めながらも、満ち足りなさを感じ取っていた。「産銅の山が要る」という嘱望の念は、五十六歳で没するまで抱き続け、奥羽地方での銅山開発が活発化するにつれ、焦りにも似たものを感じていた。これは銅職人として生まれ育った血筋と、銅が国を動かすと言う強い“信念”があったからではないだろうか。

銅山を持つ。その夢は住友三代目となる長男・友信の手によってようやく叶えられたが、三十九歳の壮年期で隠居。後を継いだ息子・友芳(四代目)が銅山開発に尽力。天和三年(一六八一)、備中(岡山)の吉岡銅山の採掘に着手したほか、出羽(山形)の最上・幸生銅山の経営を手がけ、銅吹き、鉱山経営にも進出した。だが手間と経費が嵩み、経営は苦難の一途をたどった。

別子銅山
別子銅山

元禄三年(一六九〇)、住友家に大きな転機が訪れた。伊予(愛媛県)の立川銅山(現在の別子銅山の北側半分)で働く稼人(かせぎにん)によって、裏手の人跡未踏の南側斜面に「銅の鉱脈が突き出た露頭がある」との情報がもたらされた。調査の結果、これこそが産銅の山・別子銅山である。ここから繁栄と挫折が繰り返され、数奇のドラマを乗り越えながら“銅の住友”の基盤を、そして今日の住友の礎を築いたのが激動の山・別子銅山である。

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