閉じる 蘇我理右衛門

大坂の銅吹き所には外国人も訪れた
大坂の銅吹き所には外国人も訪れた
シーボルトの名も見える
シーボルトの名も見える

蘇我理右衛門(そがりえもん)
(1572年~1636年)

蘇我理右衛門は、歳若くして銅吹き(銅精錬)、銅細工の技術を堺で習得し、天正18年(1590年)、19歳で京都寺町五条に銅吹きと銅細工の店を開業、「泉屋」と称しました。
理右衛門は、政友の姉と結婚しますが、一家をあげて熱心な涅槃宗の信者で、政友の門弟でありました。

当時、わが国の銅吹き技術は未熟で、粗銅に含まれる銀を抜き出せないままに輸出され、外国商人をいたずらに儲けさせていました。
理右衛門は、南蛮人(ヨーロッパ人)に鉛を使って銀と銅の吹き分けが出来る原理を聞き、苦心の末、新技術「南蛮吹き」を完成させました。慶長年間(1596~1615)の頃と言われます。これにより泉屋は大いに栄え、銅業界での地位も高まります。京都東山の方廣寺の大仏(現存せず)や大坂冬の陣の原因とされる「国家安康 君臣豊楽」の銘文のある大梵鐘の銅も、大部分は理右衛門が奉納したと言われています。

輸出用の棹銅
輸出用の棹銅

後に、実子住友友以(とももち)(政友の娘婿として住友家に入る)と図って大坂に進出した理右衛門は、南蛮吹きの技術を公開しました。以後大坂は日本の銅精錬の中心地となり、友以の泉屋は貿易商・両替商・銅山経営にまで手を広げ、「大坂に比肩する者なし」と言われるほどに栄えました。
寛永13年(1636年)理右衛門は65歳で没。京都五条高倉の浄運院に葬られています。

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