「君子財を愛す、これを取るに道有り」

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東嶺円慈が著した『宗門無尽燈論』。東嶺円慈は、臨済宗の中興の祖・白隠に師事したことでも知られる(写真提供/住友史料館)

江戸時代の禅僧・東嶺円慈(とうれいえんじ)が『宗門無尽燈論(しゅうもんむじんとうろん)』という本の中で書いた言葉。二代目総理事・伊庭貞剛は、これを座右の銘とした。「立派な人物は、財産を愛すものである。企業―働く―ということは、儲けるために働くのであって、恥ずかしいことではない。これは大事なことである。ただし、お金の儲け方には“道”があり、人の道に反してはいけない、モラルにかなう儲け方をしよう。そして儲かった金は、ちゃんとした使い方をしよう」という思いからである。

伊庭が煙害問題対策で四阪島に製錬所を移転したのも、この思いがあったからだ。水も出ない無人島に、港湾施設を建設し、社宅・学校・病院…と生活に必要なインフラを整備。地域の人々のため、新たな町づくりから始めるなどというのは、当時ではありえない決断だった。

四阪島製錬所の起業費は、別子銅山よりの純利益の2年分に相当する173万円余りにまで膨らんだ。その資金を煙害被害の損害賠償金に当てるなど、“その場しのぎ”の問題解決に当てることもできたはずだが、伊庭は真の解決策を求め、「煙害の根絶」にこだわったのだ。

これは現在の企業人にとっても大事な心得といえる。卑しくも浮利に走らない。インモラルなビジネスをせず、冷静に考えて「道」に反していないか、立ち止まって考えることが重要だろう。

伊庭 貞剛(いば ていごう)
1847~1926年
弘化4(1847)年、近江国(滋賀県)蒲生郡西宿の地代官、貞隆の嫡男として生まれる。母・田鶴は住友初代総理事・広瀬宰平の実姉。明治10(1877)年、函館裁判所から大阪上等裁判所の判事にまで昇進したが、明治12(1879)年住友に入社する。同年、大阪本店支配人に就任、広瀬の片腕として住友家の事業や財界活動に活躍。明治27(1894)年、別子支配人として赴任し、新居浜煙害問題の解決を図ると同時に、別子山の環境対策にも力を尽くす。明治33(1900)年、住友家の総理事に就任するが、わずか4年後「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」との信念から58歳の若さで引退した。

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