全国盲学校弁論大会特別協賛

弁論を読む 第80回(2011年) 全国盲学校弁論大会

<優勝> 世界にひとつの宝物

【近畿地区代表】 和歌山県立和歌山盲学校 高等部普通科3年 中麻さん(18歳)

「見えてたらいいのになぁ」
私が小さい頃、思っていたことです。でも、私の大切な宝物がなければ、こう思うことさえもできていなかったのです。

私は、3歳までにすべての視力を失いました。私の中には、何かを見たという記憶はありません。病名は、網膜芽細胞腫。がんの一種なので、もし転移していれば、いま、ここに私はいなかったかもしれません。適切な治療のおかげで、視力を無くしたものの、元気にここまで来れたのだと思っています。いま、こうして生きていられることがとても幸せです。しかし、そう思えるようになったのは、高校生になってからで、それまでは自分の障害を受け入れられずにいました。

小学生の頃、私は「色が見たい」と母親に詰め寄り、友だちの前では見えているふりをしたりしていました。「空は青くてきれいやなぁ」とか、「赤い服、かわいいなぁ」とか言われると、「それってどんな色?」「かわいいってどんな感じ?」という疑問ばかりが浮かんでくるのでした。また、公園などで子供が親から離れて走り回っているのを見ると悔しくてなりませんでした。「見えてたら、私も1人で走り回れたんやろなぁ」。時には、1人で走り回っていて、柱や段差に気付かず、ぶつかったり、ころんだりしました。「ちゃんと確かめへんから」と、周りの人に言われることが大っ嫌いでした。

そんな私の気持ちが変化し始めたのは、中学生になった頃。ふと1人の友達を思い出し、母に尋ねたことがきっかけでした。その友達は、幼い頃、共に病気と闘った大切な仲間です。彼女は、私が小学生になるくらいだったでしょうか、亡くなりました。当時、母からは「お星さまになって、お空へいっちゃったんやって」と聞かされたことをしっかり覚えています。中学生になった私は、どうして彼女が亡くなったのか詳しく知りたくなり、母に聞きました。

母は、少し大きくなった私に、どうしても病気が快復せずに亡くなってしまったのだということを教えてくれました。そして私に言いました。「目見えてなくても、あんたは元気に生きてるやろ。彼女の分も、その元気な体でしっかり生きるんやで」

私は、その時思いました。「生きてる私は、やりたいこと何でもできるけど、彼女は大きくなってしたかったこともできへんかったんやなぁ。見えなくても、いま生きていられる私は、この命に感謝せんとあかん。しっかり生きやなあかん」。私は、それから自分の障害を隠すことをやめました。一般の人たちが視力を使ってしていることは、自分なりに工夫するようになりました。「見えへんから無理」と自分から挑戦をあきらめることも少なくなり、活発で負けず嫌いな性格の人間に育ちました。見えないからという理由で挑戦を断られるのは、いまでも大嫌いです。しかし、そう言われた時でも、「見えてなくてもできるよ」って積極的にアピールできるようになりました。こんな私になったのも、たくさんの経験をさせてくれたり、やりたいことを納得がいくまでさせてくれる友達や先生たちがいるから、お星さまになって私を支えてくれる友達がいるからです。勉強や部活動をしたり、遊んだり、普通の女の子として生きていられることが本当に幸せです。だって、生きていなければできなかったのですから。

みなさんは、宝物ってありますか? 「これが私の宝物だよ」っていえるような大切な宝物はありますか?

私の宝物は、命です。世界に一つだけの私自身の命です。一度なくしてしまうと、もう二度と取り返せない、何よりも大切な宝物です。
目が見えなくても、こんなすてきな宝物があるのですから、私は、それを大切に、そしていきいきと輝かせたいです。

「悔いのない人生を笑顔いっぱい、明るく、強く生きる」

ご清聴、ありがとうございました。

<準優勝> 感謝するということ

【近畿地区代表】 京都府立盲学校 高等部専攻科理療科3年 髙瀬真依さん(20歳)

私は小学校にあがる前に網膜色素変性症と診断されました。母は、盲学校か一般校か迷ったすえに、私を一般校に入学させました。

小学校では先生方のサポートもあって、なんとか過ごすことができました。
しかし、中学校では違いました。人数もクラスも増え、皆が新しい友達をつくっているとき、私は友達をつくることができず、小学校まで仲良しだった友達は離れていきました。気付けば、私は、ただクラスメートの邪魔にならないように席に座り、周りを見ているだけになっていました。

中2の春でした。クラス替えがあり、皆は楽しそうに話していました。自分には関係ない事だと、いつものようにぽつんと座っていた私に、「おはよう、今日は暑いね」と声をかけた子がいました。

私はその時、「うん」としか答えられませんでしたが、私からも声をかけるようになり、仲良くなっていきました。一緒にお祭りに行き、彼女の家にも行きました。

彼女はどんな話でも聞いてくれたので、私はそれに甘えて、グチを言うようになりました。しかし、彼女は「でも、それはこうなんじゃない」とか、「でも、こういう考え方もあると思うよ」などと言うのです。共感してくれないことに不満を抱き、わざと無視し始めました。「おはよう」と言われても、しまいには「お願いだから『あ』って声を出すだけでも」とまで言われても、卒業前には全く口を利かなくなっていました。

どうして、あんなにかたくなだったのか。今思えば、障害から目をそむけることができないつらさから、やけになり、彼女に八つ当たりしていたのだと思います。

そして、私は高校で、京都府立盲学校の門をくぐりました。たくさんの事を経験しました。ドラムを演奏し、いろいろなスポーツに挑戦し、生活は一変しました。

あるとき、フロアバレーでアイシェードを使いました。真っ黒なゴーグルのようなもので、何も見えません。私は弱視ですが、後衛ができるほど見えないので、それをつけて前衛をするのです。アイシェードをつけた練習は、自分が視覚障害者だという事実を突き付けられるようで、嫌でした。

バレーをやめ、卓球ならアイシェードがいらないと思って入部しました。しかし、結局、アイマスクを使うことになりました。やってみると、意外とうまくボールを打ち返す事ができました。複雑な気持ちでしたが、次第に練習が楽しくなり、1年生の2月、近畿大会で優勝という大きな経験をしました。「大きな経験」というのは勝ったからではなく、「自分にもこんな力がある」と気付くことができたからです。このとき、できないことを追いかけるのではなく、できる事を探していこうと気持ちが変化し始めました。

それからはバレーも楽しくなり、点字の練習にも身が入るようになりました。障害から目をそらさず向き合おうとする自分がいました。

ところで、私には一つ気がかりなことがありました。中学のあの友達の事です。ずっと謝らなくてはと思っていたのです。あるとき、思い切って電話をかけました。
「久しぶり、高瀬です」 緊張した、かたい声が出ました。
「あー、真依ちゃーん、久しぶりー。連絡してくれてありがとう。ずっと、嫌われてしまったんちゃうかって、連絡すんの怖かってん。ごめんなぁ」
ホッとしたような彼女の声が聞こえてきました。
「こっちこそ、ごめん。大事な友達やったのに」
素直に謝る事ができました。胸のつかえがおりました。そして、今も良い友達でいます。

私はこれまで、たくさんの人に支えられて生きてきました。自分から積極的に頼まなくても支えてもらっていたのです。

私はもうすぐ社会人になろうとしています。これからは、もっと積極的に自分を表現していきたいと思います。できることを探し、やれるだけやって、それでもできないことについては、きちんと自分から「してほしい」「助けてほしい」と伝え、支えてくれた人に感謝して、生きていこうと思っています。

私は視覚に障害があります。この事実は変えられません。しかし、それを受け入れ、感謝の大切さに気付いたことで、これからの人生に立ち向かう力を得たと思うのです。

ご清聴、ありがとうございました。

<3位> 妹のことばを胸に

【九州地区代表】 熊本県立盲学校 普通科2年 米原聖実さん(16歳)

私は、自分の目が見えないことに対して、消極的な見方しかしていませんでした。「自分の目が見えないことは恥ずかしいことなんだ」と思っていました。「あのとき」までは……。

私は、3歳のころに交通事故で視力を失いました。それまで普通にしていたことができなくなったり、家族の顔やいろんなものの色が見えなくなったりして戸惑いや悲しみを隠せませんでした。毎日のように「どうして私は目が見えなくなっちゃったの? どうして私だけがこんなことになってしまったの?」と母親に聞いていました。そんな時、盲学校のことを知り、幼稚部に入学しました。

学校に来ている時には目が見えないことのつらさや悲しさを忘れられていましたが、家に帰るとそういう訳にはいきませんでした。近所の人や店などですれ違う人から「目が見えなくてかわいそうだ」とか、「どうして目が見えないの?」と聞かれ、外に出るのも嫌になっていました。私は、そう言われるたびに「どうして、点字という文字も読めて、学校にも行って、みんなと同じように生活しているのに、かわいそうなんていうの? どこがかわいそうなの? みんなと違って、ただ目が見えないだけじゃないの?」と言い返したいと思いながらも、言い返すこともできずに悩んでいました。

そう悩んだ時期が、小学3年生まで続きました。でも、それまでと考えが変わった時がありました。「あのとき」がやってきたのです。

小学3年の夏に妹が生まれました。その年の夏休みは毎日、妹と一緒に過ごしました。それまで赤ちゃんに身近に接したことのなかった私は、単に赤ちゃんは泣いたり、ミルクを飲んだり、寝たりして、お母さんの思い通りになるものだと思っていました。しかし、実際は、思わぬ時に泣いたり、ミルクが欲しいのかなと思ったのに眠かったりと、毎日毎日が意外性との格闘といった日々でした。

その姿を見て、「こんなに小さな生まれたばかりの赤ちゃんだって、毎日同じことを繰り返していても自分の意思をきちんと表示して必死に生きてるんだ。だから、私も悩んでいても仕方ないんだ。何でも前向きに考えなくちゃ先に進めない!」と気付いたのです。「目が見えないから何もできない」ではなくて、「目が見えなくても何でも取り組もうという意思があれば、限界はあるかも知れないけれどできないことはない」

見えない壁を少しずつクリアしよう、と決意しました。

それから、自分の苦手なことやできないこと、あきらめていたことを紙に書き出し、短期間でクリアできるものと長期間でクリアできるものに分け、早速計画を立てて取り組みました。料理や洗濯などの家事は、親が小さいころから手伝わせてくれていたので、毎日練習を積み重ね、いまでは、みそ汁やハンバーグを自分1人で作れるようになりました。それまで、できないことにぶつかると「やっぱりやめてしまおうか。何でもしようという考えが間違いかもしれない。きついのはイヤだし」と思い、何度も途中で投げ出してしまおうと思ったこともありました。でも、あきらめずに取り組み、いくつもの壁を乗り越え、できることが増えると、「あのとき頑張ってよかった」と、いままで味わったことのない達成感と満足感を感じることができ、本当によかったと思います。

いま、私は一つの壁にぶつかっています。それは、家から学校までの道を自分1人で通学するということです。これは何年間も努力を続けていますが、なかなかできません。私は「いまはできなくても、いずれできるようになるだろう」と漠然と思い、あきらめていた時期がありました。車に乗って学校から帰りながら、私は独り言で「他の人は歩いて帰れていいなあ。私もいつか1人で歩きたいなあ」と、ぼそっと言いました。すると妹が「お姉ちゃんなら大丈夫だよ。もしお姉ちゃん1人でだめでも、あたしがお姉ちゃんの目になってあげるから頑張って」と言ってくれ、努力もしないで私は何を言っていたのだろうと反省しました。それと同時に、妹が生まれた時に感じた「目が見えないことを前向きに考えよう」と決意した「あのとき」の感覚がよみがえりました。

私はこの壁をクリアするために努力を続けていますが、どうしても不安で勇気が出ない時、もうだめかもしれないと思うこともあります。そんな時は、妹の言葉と自分の決意を思い出し、今は「練習あるのみ」と思って、毎日頑張っています。そしていつか、家から学校までだけではなく、近くの店に買い物に行ったり、町まで出かけて行ったりできるようになりたいです。それが、いつ実現できるか分かりませんが、自分を信じてあきらめずにがんばります。妹のことばを胸に。

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