鼓銅図録 世界レベルの江戸の技術書

江戸時代、住友が刊行した 『鼓銅図録』は世界レベルの鉱山技術書であった。
その意義を今一度考える。

第一級の技術書

『鼓銅図録』は19世紀の初期に住友が刊行した、彩色画入りの鉱山技術書(木版印刷)である。編集・執筆は増田半蔵方綱※1、絵は丹羽桃渓※2である。最近の研究によると刊行物としての成立は、1811(文化8)年から1816(文化13)年の間と考えられる。

『鼓銅図録』の扉題字
絵1 狂歌で有名な大田南畝
(1749年~1823年)による『鼓銅図録』の扉題字。大坂銅座や長崎奉行所に出役した有能な幕吏でもあった。資料提供 住友史料館

内容は、まず扉に「大鈞鼓銅」という題字(絵1、大坂の銅座勤務の経験のある、蜀山人大田南畝の筆)があり、本文は、一、坑道の入り口から入る、二、坑内で銅鉱石を採掘する、三、選鉱する、四、坑内の涌水を引き揚げる、五、焼窯で焙焼する、六、はく吹(絵3)、七、真吹(絵4)、八、間吹(絵2)、九、棹吹(絵5)、十、合吹、十一、南蛮吹(※3、絵7)、十二、灰吹(絵6)、十三、淘汰、十四、鉛吹までが彩色画で、余白に和文の説明がある。一から七は銅山の工程、八から十四は大坂の銅吹所の工程である。十四の次に、大坂の工程の道具類の絵があり、その次に、「鼓銅録」という題の漢文(返り点と送りがなつき)の説明書があり、「浪華 住友氏蔵版」とある。日本の江戸時代の鉱山技術書としては、美しさにおいても内容の水準の高さにおいても第一級の作品である。住友はかつて創業時に、蘇我理右衛門(1572年~1636年)の開発した南蛮吹を同業者に公開し、大坂の銅吹屋全体の技術水準を高めるのに貢献したが、ここでそれを和漢両様でわかりやすく解説する書物をつくり、広く配布したのである。

間吹の図
絵2 間吹の図。
荒銅のなかでも銀分の少ないものを加熱・溶解して不純物を除き、間吹銅と呼ばれた精銅を取る。
はく吹の図
絵3 はく吹の図。
焼鉱を木炭と珪石と溶融、かわ(かわ)を取り出す。
真吹の図
絵4 真吹の図。
かわを溶解、不純物を除去する。
棹吹の図
絵5 棹吹の図。
南蛮吹や間吹で得られた精銅を坩堝に入れて溶かし、型に流し込んで固める。
灰吹の図
絵6 灰吹の図。
南蛮吹で取り出した銀を含む鉛を灰の上に置いて加熱し、銀と鉛をわける。
南蛮吹の図
絵7 南蛮吹の図。
鉛を吹き合わせた銅を南蛮床で加熱し、融点と比重の差を利用して、銀を含んだ鉛と銅を分離する。

資料提供 住友史料館

国外からの注目

イギリスのジョン・パーシー※4は1861年に刊行した『冶金学』において、この『鼓銅図録』を取り上げた。パーシーは学界の大御所で、明治初期に鉱山技師を日本へ派遣する元締であった。パーシーは技師たちに、技術指導のかたわら、日本の在来技術や文化の調査・収集を行うよう勧めたふしがある。そのひとりウィリアム・ゴーランド(日本ではガウランドとして知られる)は造幣事業の顧問として働きながら、「白目論」という論文、古墳の研究、「日本アルプス」の命名でも知られる。イギリス、ウェールズのスウォンジーの博物館に収蔵されていた日本在来の銅精錬関連の道具や製品は、ゴーランドの収集の成果であろうと考えられている。
1961(昭和36)年住友金属鉱山の藤森正路氏(後の社長)がこのスウォンジーの博物館で、「銀気これなき荒銅」(銀のない、南蛮吹の対象外の荒銅。別子銅の可能性が高い)、「銀気これある荒銅」(南蛮吹の対象となる荒銅)、坩堝などを発見、25年あまり後に里帰りさせ、現在、社団法人日本金属学会附属金属博物館(宮城県仙台市)と別子銅山記念館(愛媛県新居浜市)で展示されている。
江戸時代に大坂の住友銅吹所を幕府高官やオランダ商館長が訪問すると、「銀気これなき荒銅」、「銀気これある荒銅」、間吹銅、合銅、かん銅、棹銅などを並べて展示した。このような訪問の際、『鼓銅図録』は箱入りの鉱石・各種銅の見本とともに贈呈された。オランダ商館長に同行したシーボルトも『鼓銅図録』を贈呈されたことが、彼の手記に記録され、よく知られている。実際、現在オランダに『鼓銅図録』が保存されている。明治になり、大坂の銅吹所が閉鎖され、不要になった展示品が前述のゴーランドに提供された可能性は大いにあるのである。
パーシーが『冶金学』のなかに『鼓銅図録』を取り上げたとき、その現物を見たわけではなく、雑誌に出ていた部分訳によった、とある。その雑誌とは中国の広州でアメリカの宣教師が出していた『チャイニーズ・レポジトリー』(Chinese Repository)という雑誌で、部分訳は1840年6月号に掲載された。この記事は『鼓銅図録』の絵を載せていないが、文章は和文と漢文の全体の英訳に、オランダ商館の医師チュンベリーの銅精錬観察記録(1776年)の英訳をつけたものである。『鼓銅図録』の原本は出島の外科医ビュルゲルが広州にもちこんだ。チュンベリーの観察記録もビュルゲルがもちこんだのにちがいない。ビュルゲルはシーボルトの助手として来日し、シーボルトとともに商館長の参府にも同行して住友銅吹所を訪問し、シーボルトが日本から追放された後も後任の医師としてとどまって、彼の研究に協力した。
日本の銅は奈良の大仏鋳造のころ以降一時生産が低下したが、中世から再び上昇し15~16世紀には中国や朝鮮へ輸出された。その後、16世紀後半から17世紀初期、世界的な大航海時代に日本は世界有数の銀輸出国となった。鎖国が始まるころ銀の生産が衰退、銅の輸出が1646(正保3)年に再開され、17世紀末の一時期には銅の生産量が世界一とされる。オランダ船、中国船が日本産の銅を、インド、東南アジア、中国へ輸出した。

日本銅は18世紀、世界の銅価格を動かす要素として、 『国富論』にも登場した。

『国富論』と日本銅

日本銅はヨーロッパの記録にも登場し、1776年に刊行されたアダム・スミスの『国富論』(水田洋監訳・杉山忠平訳、岩波文庫)には、遠隔地の金属鉱山の産物の例として言及されている。「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない」(第1編第11章)
日本銅をヨーロッパへもちこんだのは、もちろんオランダの東インド会社である。平常はインド、東南アジアへ輸出して多大の利益をあげたが、アムステルダムの銅市場でスウェーデン銅と支配権を争うため、またオランダとイギリスやフランスとの戦争時の軍需物資として、ヨーロッパへもちこむことがあった。しかし18世紀には日本の銅生産が衰退し始めたことと、オランダの国力が低下したため、日本銅は船の底荷程度でヨーロッパでは微々たる存在になった。それでも『国富論』での言及があったためにパーシーが記憶し、さらに『チャイニーズ・レポジトリー』の記事に着目することになったのかもしれない。
シーボルトやビュルゲルの熱意、シーボルトに贈呈した『鼓銅図録』が『チャイニーズ・レポジトリー』に紹介されてパーシーを動かし、パーシーがゴーランドを動かしたこと、ひいては当時の大英帝国の視野の広さ、周到さ、文化財保存の手厚さを思うと、感慨深いものがある。現代は、戦後日本の転換期といわれるが、はたして後世から見て遺産と認められるような現代文化の成果(精華)をもったであろうか。

今井典子
文・今井典子
Imai Noriko
住友史料館副館長。1942年京都府生まれ。大阪にて育つ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了後、三井文庫を経て住友史料館に入り、主席研究員となる。2001年より現職。おもな論文に「近世住友の吹所の研究」(『泉屋叢考』第19輯)などがある。銅吹所を中心に住友の近世史を研究している。

※1増田半蔵方綱 ますだ・はんぞう・ほうこう
1769年から1821年。
若年から住友に勤務し、越前面谷(おもだに)銅山、銅吹所支配役を経て本店支配役、老分末家となる。

※2丹羽桃渓 にわ・とうけい
1760年から1822年。絵師。

※3南蛮吹 なんばんぶき
蘇我理右衞門が開発した銀・銅吹き分けの技術。ポルトガルの商人からヒントを得たともいわれる(絵7参照)。

※4ジョン・パーシー John Percy
1817年から1889年。イギリスの冶金学者。

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